長崎原爆の日 ―悲しい偶然―

 194589日、アメリカにより、歴史上2発目の原子爆弾が長崎に投下され、三菱造船所や兵器工廠のあった軍需都市長崎は壊滅し7万人以上が死亡しました。ここに至るには大きな偶然がありました。

 194589日未明、爆縮型プルトニウム爆弾「ファットマン」を積んだB29「ボックス・カー号」(機長チャールズ・スウィーニー少佐)が、計測器や気象観測機など5機とともに離陸しました。当時、原子爆弾の最重要投下目標は小倉(現在の北九州市小倉北区と小倉南区)であり、長崎はその次にあたりました。89日未明、しかし、小倉はその日、雲と前日の八幡爆撃による煙に覆われていて視界は最悪でした(ここでも投下目標の確認は目視で行うように命令されていました)。3回目目標確認作業を行っても目標を確認できずそれによって燃料が少なくなったので、目標を長崎へと変更しました。

 長崎も厚い雲に覆われていて、2回も今日確認作業が行われたのですが、2回目に雲の隙間から一瞬、長崎市街の一部が見え、そこめがけて投下したのでした。

 長崎は海と山に囲まれた特異な地形であり、しかも爆心地が市街地から離れていたため、本来「リトルボーイ」より威力が高いはずの「ファットマン」の破壊力は十分に生かされず最終的に広島より被害が少なくなりました。もし、「ファットマン」が小倉に落とされていたならば、長崎より平地が多いためにより多くの被害が出ていたかもしれません。

ところで、この投下目標はどのようにきめられたのでしょうか。目標の選出基準としては「市街地が4.8キロメートル以上の直径を持ちさらに周りに住居が広がっている都市」「東京から長崎の間に位置する都市」、「日本にとって高度な戦略的価値がある都市」となっていました。その結果、東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、京都、神戸、広島、呉、下関、山口、小倉、八幡、熊本、長崎、佐世保の17地域が選ばれました。その後投下目標は、

横浜、京都、広島、小倉→横浜、新潟、広島、小倉→新潟、広島、小倉、長崎

と変遷し、1945725日に広島、小倉、長崎と決定されました(京都に投下してほしいという軍人や科学者が多くいたそうですが)。

 歴史は残酷です。もし、歴史のどこかが少しずれていたら、歴史は大きく変わっていたということはよく考えられます。ここでも、もし、長崎ではなく小倉に「ファットマン」が投下されていたならば、小倉では広島以上の人数の人々が死亡し、現在の北九州市が国際平和都市となり、長崎はただの国際都市としてそれぞれ今に至っていたかもしれません。

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