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阪神淡路大震災 ―崩壊した近代都市―

1995117日午前546分、兵庫県淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の地震が起こり、死者・行方不明者6427人、倒壊・半壊家屋257890軒、焼失家屋7465軒と、地震災害としては戦後最悪のものとなりました。神戸市や淡路島では観測史上初の震度7(激震)を記録し、100万人以上の人口を抱える神戸市は老朽化した建物の多くが倒壊し、液状化現象によって港湾施設が浸水して使用不能となり、火災旋風によって6000棟以上の建物が焼失しました。

こうした災害では被害の悲劇性と復興への並々ならぬ努力に目が行ってしまいがちです。確かに被害は甚大で、悲しむべきことです。今の神戸の繁栄もそのための努力も感銘に値します。しかし、そればかり見ているわけにはいきません。この時の政府の対応はあまりにもおざなりなものでした。発生から数時間の間、首相官邸には関係省庁から情報が伝達されず、首相官邸の情報源は新聞やテレビのみという状態が続き、事態の深刻さを把握するまでに相当な時間がかかりました。その間当時の村山富一総理大臣は淡々と通常の執務を行い続けたのです。そして関係省庁の情報収集も現地の施設(発電装置など)に依存したものが多く、現地の発電施設や変電施設が破壊されて使用不能となる事態が続出しました。当然、神戸・大阪エリアの電話回線はパンクしていました。

兵庫県庁や神戸市役所も被害を受け、神戸市内の地図が保管されている部屋が破壊され、市内の状況を把握することが困難になっていました。また警察署や交番も壊滅し、自身が被災者となった警察官も多く、人命救助に当たる警官にそれ以外の職務をする余裕はありませんでした。そのため大阪から神戸にかけて大渋滞が発生し、情報伝達や移動が阻害されることになったのです。そもそも都市直下型地震が想定されていたのは首都圏のみで、関西地区ではこのような大規模な都市直下型地震は想定されていませんでした。このように当時の政府や自治体の盲点を挙げればきりがありません(それが世界中のNGOや各地のボランティア、そして神戸に本部を持つ日本最大の暴力団「山口組」などの救援活動が大きく注目される一因となりました)。

阪神淡路大震災は地震の直接の被害も大きかったのですが、政府の対応の遅れ、想定の甘さが被害を拡大させた側面もあります。この災害は日本の災害対策の脆弱性を白日のものとしました。近年東海地震、東南海地震、南海地震が近いうちに起こると言われていますが、日本政府や自治体は阪神淡路大震災における教訓を今に生かしているのでしょうか。それは実際に災害が起こらなければ分からないかもしれません。

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