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血の日曜日事件 ―最初のロシア革命―

 1905122日(ロシア暦19日日曜日)、ロシア帝国の都ペテルブルク(現在のサンクトペテルブルク)で、司祭ガポンに率いられ、日露戦争の休戦や税の引き下げを要求していたデモ隊が皇帝の宮殿(冬宮)に押し掛けました。しかし、当時の皇帝ニコライ2世は衛兵に発砲を命じ、衛兵はデモ隊に対して発砲しました。これによりデモ隊に多くの死傷者が出ました(正確な死傷者数は今もわかっていません)。この事件をきっかけに最初のロシア革命(第一次ロシア革命)が始まりました。

 1904年に日露戦争がはじまって以来、国民は疲弊しました。当時ロシア帝国の皇帝(ツァーリ)はロシア正教の最高指導者であり、神に最も近い存在でした。ツァーリという称号が皇帝教皇制をとっていたかつての東ローマ帝国の皇帝に由来するものであることからもわかります。その皇帝に直接自分たちの声を聞いてもらえば何らかの希望がつかめるはず、農民たちはそう思っていました。しかし、この事件により、国民の期待は失望に変わりました。

これにより労働者からなるソヴィエト(評議会)が結成され、労働者たちはストライキを起こしました。1901年に結成された社会革命党の党員たちは要人へのテロに出ました。これが第一次ロシア革命です。度重なる暴動やストライキ、テロによって皇帝は国会(ドゥーマ)の開設などを約束した十月宣言に署名しました。これによりテロを行っていた組織は弱体化し、立憲民主党(カデット)が結成されるなどの動きがありました(なお、デモ隊を扇動したガポン司祭は1906年に社会革命党の党員に殺害されました)。しかし、その後も皇帝は権力を握り続け、ロシア社会の動揺は続きました。

国民が困窮すれば社会は不安定になります。社会が不安になる中で、ある人が既存の体制への反発を表わすと一挙に既存の体制への反発が強まり、そして大きく広まります。それはこの時代から幾度となく繰り返されてきた歴史の姿なのかもしれません。

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