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ヒトラー、首相就任

Eins Volk, eins Fühler, eins Reich, Deutschland!

 1933130日、ドイツ・ヴァイマル(ワイマール)共和国大統領ヒンデンブルクは、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチス党)党首アドルフ・ヒトラーを首相に指名しました(ナチス党は政敵がnationalsozialistischeをもじって作った通称ですが以降はこの名前を用います)。1920年に結成されたナチス党は、ついに民主主義社会において政権を掌握しました。経済の再建、反ユダヤ主義、ヴェルサイユ体制の打破を掲げたヒトラーはヴァイマル(ワイマール)憲法下の政治体制を破壊するため動き始めました。

 1920年、ナチス党は1920年にカルト教団「トゥーレ教会」を母体として反資本主義、反ユダヤ主義、反共主義を主な綱領とする右翼政党として発足しました(ナチス党の経済政策は社会主義の影響を受けていますが、そのことにヒトラーは気付いていませんでした。このほかにもナチス党には宣伝方法などで共産主義や社会主義の影響を受けた部分が多々あります)。1921年、アドルフ・ヒトラーが巧みな弁舌能力により党首に就任しました。1923年、ナチス党はヴァイマル政府を打倒しようとドイツ南部のミュンヘンにおいて決起を起こしますが軍や警察の同調が得られず失敗します(ミュンヘン一揆)。ヒトラーは捕らえられ、投獄されました。当時、ドイツは第一次世界大戦に敗れて巨額の賠償金を課せられた上、フランス軍によりルール工業地帯を占領されて、国民の間に不満が募っていました。これに対して労働者がストライキで応戦したため物価が上昇し、当時のヴァイマル政府はストライキを止めさせようとしました。その政府に対して国民の間でさらに不満が募りました。獄中でヒトラーは「わが闘争(mein Kampf)」を書きあげます。ナチス党は非合法化されました。ヒトラーは禁固5年を言い渡されますが、1924年に9カ月の刑期で釈放されました。これ以降ナチス党は再建され、合法政党として活動を再開します。

 不況と政局の混乱を背景に、膨大なビラやポスター、精力的な遊説、他政党へのネガティブキャンペーンなど感覚に訴える選挙戦で着実に議会での議席を増やし、1932年には議会第一党になりました。しかしそれでも議会での勢力はあまり大きくなく、ヒトラーの内閣も他党との連立内閣でした。そのためナチス党は翌月に起きた国会議事堂放火事件などを政治的に利用して共産党や社会民主党などの党員を逮捕するなどの弾圧を加えました(共産党は当時ナチス党とともに勢力を伸ばしていました)。

 こうした中でヒトラー内閣は1933年に議会で全権委任法を成立させ、国会の審議を経ずに立法することが可能になり、1934年にヒンデンブルク大統領が死去するとヒトラーは大統領を兼務し、独裁者(Fühler、総統)となりました。その下でアウトバーンの建設やフォルクスワーゲンの生産などの公共事業を行い、1935年には再軍備宣言を行って軍需産業を再建させ、失業者を吸収しました。これによりヒトラーは国民の支持を盤石なものとしました。

 一方で、ユダヤ人にとっては迫害の始まりでした。町のユダヤ人が経営する商店は破壊され、ユダヤ人の著書は焼き捨てられました(弾圧が行われなかったのは、1936年のベルリンオリンピックの間だけでした)。ユダヤ人だけでなく、社会主義者や自由主義者も同じ運命を辿りました。これらの人々の多くが国外逃亡を余儀なくされました。

 また、1933年にヴェルサイユ条約の破棄を通告し、賠償金の支払いを一方的に停止しました。同年国際連盟も脱退し、日本やイタリアに接近していきます(ちなみに「わが闘争」では日本人は劣等民族とされていますが、後に日本食を称賛したりしています)。

 このページの副題は「1つの民族、1人の指導者、1つの帝国、ドイツ!」というドイツ語で、あるナチス党大会において叫ばれたものです。ナチス党の目指すものがよくわかると思います。こうしてナチス党は史上初の社会権についての記載で名高いヴァイマル憲法を合法的に骨抜きにしたうえで国力を増大させ、やがて、第二次世界大戦を引き起こすのです。

 極右政党に政権を掌握させたものは、現状の政治、経済への限りない幻滅と、単純な目標や政策を掲げる若く活力を感じさせる指導者でした。長い不況で将来に絶望しか見出せない国民(1929年にはドイツ国民の3分の1にあたる700万人が失業者でした)が問題に対して無策の政府と政争に耽る既存政党に幻滅し、優秀な民族の復興を掲げるナチス党とその活力ある若き指導者ヒトラーに希望を託したのです。そして実際に成果があったため、国民は指導者に無批判になり、その陰で行われた犯罪が見過ごされたのです。また、社会の不満は、ドイツに圧力をかける外国や迫害の対象とした人々に向けられ、政府に向くことはありませんでした。そしてそれらが、第二次世界大戦の敗戦という再度の破局への道をドイツ国民に辿らせる原因となるのです。

 私は2009年のアメリカ大統領就任式にこの時と似たものを感じました。経済や前政権への限りない幻滅、熱狂する人々、単純明快な言葉を掲げる若き指導者など、よく似ています。しかし、違う点もあります。それは、自国民を尊び他民族を貶めるようなことをしない、民主主義のルールを決して破壊しない、他国への攻撃性をあまり示さないという点です。この2つの違いはとても大きな違いであると言えるでしょう。

 最後に、オーストリア・ブラウナウにあるヒトラーの生家の前に建てられている石碑の言葉を書いておきます。

Für Frieden Freiheit und Demokratie

nie wieder Faschismus

Millionen Tote mahnen.

 

平和と自由と民主主義のために

もう2度とファシズムが無きように

幾百万の死者は忘れてはならぬと戒める。

 

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