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浅沼稲次郎暗殺 ―「ヌマさん」の最期―

 19601012日、日本社会党(現在の社会民主党)の浅沼稲次郎委員長が、東京・日比谷の日比谷公会堂で三党(自由民主党、日本社会党、民主社会党)党首立会演説会の最中、当時17歳の山口二矢(やまぐちおとや)に匕首で刺されました。浅沼稲次郎は腹部の大動脈を切断されほぼ即死しました。新日米安保条約をめぐる安保闘争のただ中に起きたこの事件は、犯人が17歳の少年であったこともあり、日本中に衝撃を与えました。

 浅沼稲次郎は1898年、東京都の三宅島に私生児として生まれました。幼いころに母親と生き別れました。早稲田大学の学生時代に社会主義運動に傾倒し、1925年、農民労働党が結成され、浅沼稲次郎は書記長となりました。しかし、農民労働党は結成当日に当時の治安警察法により結社禁止となります。その後、浅沼稲次郎は日本労農党に参加し、日本大衆党、全国大衆党、全国労農大衆党を経て、1932年社会大衆党に参加します。当時の浅沼稲次郎は尊皇家であり、15年戦争を支持していました。戦後の1945年、日本社会党の組織局長となり、1948年に書記長となりました。1951年に日本社会党が左派と右派に分裂したとき、浅沼稲次郎は右派に属し、再統一後の1960年に委員長となりました。全国各地に遊説に行く姿から「演説百姓」と呼ばれ、新長175cm、体重100kg以上の体格から、「人間機関車」とも呼ばれ、また粗末なアパートでのつつましい生活から親しみをこめて「ヌマさん」とも呼ばれました。

 山口二矢は1943年東京で生まれました。山口二矢は右翼思想の持ち主であった兄の影響を受けて玉川学園高校に通っていた1959年に大日本愛国党に参加し、同年原水爆禁止世界大会のデモに突入して逮捕されるなど、9回の逮捕歴がありました。その後、安保闘争が盛り上がる中で、大日本愛国党を辞め、左翼政党の指導者の暗殺を考えるようになった山口二矢は河原で小枝を使って暗殺の訓練を始めます。その方法が、「匕首の刃を水平に向け、腰にあてて相手に突進する」というものでした。

 事件は偶然が重なって起きました。日比谷公会堂に着いた山口二矢は、演説会の会場に入るのに入場券が必要なことを知りませんでした。それを入口の係員がたまたま持っており、山口二矢はそれを譲ってもらいます。そして会場では警備にたまたま隙ができました。ここを狙って、山口二矢は匕首の鞘を抜き、浅沼稲次郎に突進しました。

 事件により山口二矢は現行犯逮捕され、当時の赤尾敏・大日本愛国党総裁や防共福田進・防共挺身隊隊長もそれぞれ威力業務妨害、公正証書原本不実記載の容疑で逮捕されました。当時の山崎巌国家公安委員長兼自治大臣はこの事件の責任を取って辞職しました。また、暗殺の瞬間を撮影した毎日新聞のカメラマン長尾靖はその写真で日本初のピュリッツァー賞と世界報道写真大賞を受賞しました。また、暗殺の瞬間を撮影したNHKのフィルムは史上初の政治家が暗殺される瞬間を映したフィルムとなりました。

 1960112日、山口二矢は東京少年鑑別所において布団のシーツで首を吊り、自ら命を絶ちました。彼がいた独房の壁には支給された歯磨き粉で「七生報国」「天皇陛下萬歳」と書かれていました。山口二矢は死後、右翼民族派から「山口烈士」と呼ばれて讃えられ、大日本愛国党の本部にある祭壇には彼のデスマスクが飾られました。

 彼のしたことは見まごうことなきテロ行為であり、容認されるものではありません。しかし、彼の意志の強さと努力には驚かされるものがあります。その動機は何から来るのか、私には興味深く思えます。彼がこの世にいない以上、永遠に分からないかもしれませんが。

 最後に、彼が詠んだ辞世の句を添えておきます。

 

国のため 神州男児 晴れやかに 微笑み行かん 死出の旅路に

大君に 仕え奉れる若人は 今も昔も 心変わらじ

 

 この2首を詠んだとき、山口二矢は何を思ったのでしょうか。

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