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群青忌 ―濃霧の奥―

 19931020日、右翼活動家の野村秋介(のむらしゅうすけ)が、東京の朝日新聞本社役員室で拳銃自殺を遂げました。「右翼」と呼ばれることを嫌がり、「新浪漫派」を自称した野村秋介の死は多くの右翼民族派に衝撃を与えました。以来この日は一部の右翼民族派から「群青忌」と呼ばれ、野村秋介の法要が営まれ、野村秋介を偲びます。

 野村秋介は1935年、東京に生まれました。神奈川工業高校を中退した後、愚連隊となりました。ある時、事件を起こして網走刑務所で服役しました。その時、三上卓の門下生に出会いました。野村秋介は三上卓の思想に感銘を受け、出所して三上卓の弟子となりました。その思想の下で彼は1960年に憂国道志会を結成し、1963715日、政治腐敗の元凶として当時の河野一郎自由民主党幹事長(河野洋平前衆議院議長の父)の自宅を焼き討ちしました(屋敷にいた人は野村秋介らが脅迫して追い出していました)。これにより野村秋介は逮捕され、懲役12年の刑に処されます。出所後の197733日、野村秋介は元楯の会会員などとともに「YP体制打倒青年同盟」としてヤルタ・ポツダム体制(YP体制)の安住者として日本経済団体連合会(日本経団連)本部を襲撃し、籠城しました。この事件でも逮捕され、懲役6年を言い渡され服役します。彼は刑務所の中で多くの書物を読み、俳句を詠み、思想的にも深化していきました。テレビ番組で、学生からの「国家とは何か」という問いに対して、「国家とは、エゴイズムの塊である」と答えられるまでになったのです。

 彼は1992年に参議院選挙に際して「風の会」という政党を設立しました。それを週刊朝日の風刺画コーナー「ブラックアングル」で「虱の党」と揶揄されました。風の会の立候補者は全員落選しましたが、選挙後、野村秋介はマスコミを公職選挙法違反で告訴しました。しかし、訴えは取り下げられました。しかし野村秋介の抗議活動は続き、ついに翌年1020日に謝罪することとなりました。その日、朝日新聞の社長と週刊朝日の編集長が謝罪しました。その後しばらく話が続き、朝日新聞社側が話を終わらせようとしました。その時、野村は自らの決意を語り、2丁の拳銃を取り出しました。しばらくして皇居に向かって「皇尊弥栄(すめらみことのいやさか)」と3度唱え、止めようとする朝日新聞社関係者を黙らせた後、しゃがみ込んで自らに3発発砲しました。3発の弾は野村の腹部を貫通し、野村は死亡しました。「虱の党」の風刺画を描いたイラストレーターはこれにショックを受け、その時に書いていた風刺画の制作を中止しました(彼は野村秋介の抗議に対しすぐに謝罪していました)。

 野村秋介は存命当時から通常の右翼とは(そして現在の右翼とも)一線を画していました。彼は伊藤博文を暗殺したアン・ジュングン(安重根)を讃え、無政府主義者大杉栄の言葉に感銘を受けました。また、河野一郎邸焼き討ち事件で千葉刑務所に服役していた時、ある勤勉な在日韓国人の受刑者が看守に虐待されていました。これを見た野村秋介は千葉刑務所の管理部長にかけ合い、その受刑者が仮釈放面接を受けることができるようにしました。さらに、1983年、衆議院総選挙に元在日コリアンの新井将敬(1966年に日本国籍を取得)が立候補しました。同じ選挙区には石原慎太郎(現東京都知事)が立候補していました。結果としては石原慎太郎が当選しましたが、選挙期間中、新井将敬の選挙ポスターに「1966年に北朝鮮から帰化」などと書かれた黒いシールが貼られるという事件が起きました(新井将敬は大阪生まれであり、北朝鮮とは関係有りませんでした)。この事件の犯人として公職選挙法違反で逮捕されたのは石原慎太郎の関係者でした。これに野村秋介は激怒し、石原慎太郎の事務所に押し掛け抗議活動を行いました。結局、石原慎太郎の公設第一秘書が逮捕されましたが、石原慎太郎本人が関与したかどうかは分からないままとなりました。

 事件後、毎年この日に、群青忌が執り行われるようになりました。「群青忌」とは、野村秋介最後の著書「さらば群青」から取ったものです。野村秋介は右翼でありながら、新左翼や在日コリアンなど一般に右翼民族派が敵対するものとも共感するなど、右翼・左翼を超えている一面があります。野村秋介は私が敬意を表する数少ない右翼活動家の一人です。また、彼は俳句や詩を良く書き、獄中句集には獄中で詠った俳句240句が収められています。

 野村秋介が右翼民族派の同志に宛てて書いた遺書の最後には、次のように書かれています。

惜別の銅鑼は濃霧の奥で鳴る

この言葉は、何を意味するのでしょうか。そして今の右翼民族派の運動を、野村秋介はどう見ているのでしょうか。

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