10月24日
暗黒の木曜日 ―ウォール街発、世界恐慌へ―
1929年10月24日木曜日、ニューヨーク証券取引所でジェネラル・モー
ターズ(GM)の株価が下落し、アメリカ金融界は大混乱となりました。多
くの株が売りに出され、その損失のために自殺する人も出ました。その後、
株価は小幅な値動きをしましたが、10月29日にはさらなる暴落が起こり、
経済は完全に混乱しました。世界恐慌の始まりです。
1918年、第一次世界大戦が終結したとき、ヨーロッパ各地が戦場になり
荒廃した中、イギリスやフランスに対し物資援助を行っただけだったアメリ
カはほとんど損害を受けませんでした。アメリカは一躍世界最大の経済大国
となりました。さらに諸国復興のために経済援助をしてアメリカは債務国か
ら債権国となりました。またウォレン・ハーディング、ジョン・クーリッジ、
ハーバート・フーヴァーの3代にわたった共和党大統領による経済放任政策
により工業生産も輸出も増加し、「黄金の20年代」、或いは「永遠の繁栄」と
いわれる繁栄を謳歌しました。ここに、あちこちにあふれる広告やマスコミ
による情報の氾濫に象徴される現代の大衆消費社会の原型が出来上がりまし
た。しかし、そこには農村の荒廃、禁酒法による犯罪組織の隆盛、排他主義
などの陰の部分もありました。そして、人々の関心の向かう先は株と土地で
した。株や土地は1980年代のバブル景気時代における日本のように当時は絶
対に下がらないと思われていました。1929年9月まで株価が上がり続け、人
々は好景気(バブル景気)に酔いしれました。しかし、その後は小幅な値下が
りが続き、ついにバブルは弾け飛びました。企業倒産が相次ぎ、失業率は25%
(失業者1300万人)に達しました。失業者の多くが衣食住に困る一方、食料
価格の下落のため大量の食料が腐っていくままに放置される光景が見られまし
た。これに対しフーヴァー大統領は何もしませんでした。自由放任の下やがて
立ち直るであろうという市場万能主義に基づいた判断でした。しかしその予測
は外れました。人々は公園や空き地にバラックを建て、その集落を経済政策へ
の皮肉をこめて「フーヴァー村(Hooverville)」と呼びました。その後経済政
策の転換は1933年、民主党のフランクリン・ローズヴェルト大統領の登場ま
で待つことになります。
株価の下落は実体経済の危機に拡大しそしてアメリカのみならず全世界規模
の経済危機となりました。恐慌は第一次世界大戦における損害で国力を消耗し
アメリカの生産力に依存していたヨーロッパ諸国、さらにはアメリカを大きな
貿易相手国としていた日本や他のアジア諸国にも広まりました。中でも第一次
世界大戦での敗戦国ドイツはその影響を特にひどく受けました。ドイツはヴェ
ルサイユ条約で領土の1割を失い、植民地を全てイギリスとフランスと日本に
奪われ、巨額の賠償金を課せられました。その上、1923年にフランスが工業地
ルール地方を占領してから空前のインフレーション(最終的に物価が1兆倍に
なりました)に陥っていました。これが恐慌により賠償の要であったアメリカ
資本が次々と撤退し、失業率は33%(失業者600万人以上)になりました。し
かし、当時のヴァイマル政府は無策で、人々の先行きの見えない不安と不満は
高まりました。その中で、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働
者党(ナチス)が大衆の支持を得ていきます。
1927年から金融恐慌に喘ぐ日本にも世界恐慌が追い打ちをかけました。貿易
が不振になり、工業生産が伸び悩み、作物価格も下落しました。その中で満州
への進出や経済の統制、そして軍部の台頭への道が開かれることとなります。
イギリスやフランスは「ブロック経済政策」により自国や植民地から他国の
製品を高い関税を使って締め出し、植民地に自国との貿易を優先させて対応し
ました。これにより貿易に依存していた国は打撃を被りました。
ソ連はスターリン指導の一国社会主義体制の下、五カ年計画を進めました。
そのため世界恐慌の影響をほとんど受けず、他の資本主義国の知識人の注目を
集めました。しかし、その裏には反体制派とされた人々に課せられた強制労働
や処刑がありました。
このように世界恐慌によって世界は再び分断されました。そして広大な領土
や植民地を持たない国々(日本、ドイツ、イタリアなど)では全体主義が主流
となっていきました。そして次第に孤立していき、やがて第二次世界大戦へと
つながっていくのです。
以来今でも、人々はしばしば金融危機が起こるたびに事態をこの世界恐慌に
なぞらえています。2008年の経済危機も例外ではありません。しかし、幸いな
ことは、経済危機の結果が今のところ第二次世界大戦のような破壊的な結末を
迎えていないことです。