1114

浜口雄幸銃撃 ―男子の本懐―

19301114日午前858分、浜口雄幸内閣総理大臣が東京駅で右翼団体

「愛国社」の社員、当時21歳の佐郷屋留雄(後に佐郷屋嘉昭とも呼ばれる)に

腹部を拳銃で撃たれ骨盤を骨折するなどの重傷を負いました。浜口雄幸は翌年

この傷がもとで感染症を起こし8月に62歳で亡くなりました。

19297月、立憲政友会の田中義一内閣が張作霖爆殺事件(満州某重大事件)

の首謀者の処罰について田中首相が昭和天皇に叱責され総辞職すると、政権交替

により立憲民政党の浜口雄幸総裁が首相に推薦されました。組閣はわずか1日で

行われたそうです。政策としては緊縮財政による歳出削減と、それに伴う軍備の

縮小、協調外交などがありました。しかし、このうち2つの政策が批判を浴びる

こととなります。

 1つ目は、緊縮財政によるデフレです。浜口雄幸内閣は19301月に金の輸出

を解禁しました。当時の日本は金融恐慌のただ中にありました。金貿易によって

金保有量の調節と為替の安定、そして貿易の安定を狙ったのです。しかし1929

1024日に世界恐慌が始まり、しかも金輸出禁止前の円高の状態で解禁したため、

金が大量に国外に輸出され、金本位制の下通貨発行量が減少し、デフレ経済となり

ました。金融恐慌に始まった不況を収拾するための政策が、逆に不況を促進させる

こととなりました。企業倒産が相次ぎ、失業者が増加しました。

 2つ目は、協調外交です。19305月、日中関税協定が締結され、中国(国民党

政府)に関税自主権が認められることとなりました。これは問題にならなかったの

ですが、4月に財部彪海軍大臣が、海軍軍令部長などの反対を押し切って調印した

ロンドン海軍軍縮条約は批判の対象となり、統帥権干犯問題に発展しました。海軍

軍令部長の反対を押し切って海軍の軍備を制限する条約に調印したのは天皇の統帥

大権と統帥権の独立を犯しているというのです。このことを野党となっていた立憲

政友会の犬養毅や鳩山一郎が攻撃し、それに枢密院や海軍軍令部、そして右翼団体

が同調しました。この右翼団体の1つに佐郷屋留雄が当時所属していた「愛国社」

がありました。

 佐郷屋留雄自身も動機は統帥権干犯問題に憤激したからと語っています。しかし、

統帥権干犯とはどういうことなのかは知らなかったそうです。撃たれた浜口雄幸は

「男子の本懐じゃ」という言葉を残しました。男の望むところだ、ということです。

根回しを嫌う謹厳実直で頑固な性格と、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた

浜口雄幸にふさわしい言葉でしょう。

 佐郷屋留雄には1932年に死刑判決が下されますが、1934年に無期懲役に減刑と

なり、1940年に出所しました。佐郷屋留雄は戦後に右翼の大物となり、彼が設立に

関わった右翼団体には護国団(1954年結成)、日本同盟(1963年結成)、日本民族

青年同盟(1971年結成)など現在でも盛んに活動しているものも少なくありません。

1959年には全日本愛国者団体会議(全愛会議)の初代議長の1人となるなど、右翼

活動を続け、1972年に63歳で死去します。

 この事件以降1931年の三月事件、十月事件、1932年の血盟団事件、五・一五事件、

1933年の神兵隊事件、1936年の二・二六事件など、右翼や軍部の急進派によるテロ

やクーデターが相次ぎそれまでの支配層を脅かしていくこととなります。佐郷屋留雄

が使った拳銃の入手にも海軍が関わっていたという情報もあります。政治の乱れを目

の当たりにして憤激するのはわかりますが、彼らの行動は憂国の士と言えるものなの

でしょうか、それともただの自己満足なのでしょうか。管理人としては、自己満足の

領域を出ていないように見えます。

戻る

inserted by FC2 system