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憂国祭 ―三島は憂国の士か―

 19701125日、右翼団体「楯の会」代表で作家の三島由紀夫(45)と、楯の会会員の森田必勝(もりたまさかつ)(25)が東京・市ヶ谷の自衛隊駐屯地に籠城した後短刀で腹を切り自殺しました。「仮面の告白」、「憂国」、「潮騒」、「宴のあと」戯曲「サド侯爵夫人」などの作品で世界的に有名な作家であった三島由紀夫の自殺は世間を騒然とさせました。

 三島由紀夫・本名平岡公威(ひらおかきみたけ)の感性や作品などの特徴は、芸術に疎い管理人にはよく理解できない上に説明が難しいためここでは書きませんが、耽美的、右翼的な側面があったことは確かなようです(完全にそれだけとは言えませんが)。

 その三島が1125日午前11時ごろ、東京・市ヶ谷の自衛隊駐屯地の東部総監室を楯の会メンバー4人と訪れ、談笑している隙を見て益田兼利総監を人質にして、駆け付けた幕僚ら8人を日本刀などで追い返して籠城を始めました。三島は30分演説をさせることを要求し、総監室のある建物のバルコニーから演説を始めました。演説には憲法改正や自衛隊員に決起を促す内容が含まれていました。しかし、自衛官たちのブーイングが激しくすぐに打ち切りました。総監室に戻った三島は上半身裸になり、短刀で真一文字に腹を切り、森田必勝が介錯しようとしました。しかし森田は介錯に失敗し、中途半端に首が切れてしまいました。そのため剣道の有段者である他の隊員が最終的に介錯しました。その後森田も腹を切り、同じ隊員が介錯しました。

 川端康成とともにノーベル賞候補ともいわれた三島由紀夫がなぜこの行動に出たのかは未だに定かではありません。本当に国を憂いていたのか、それとも何らかのフェティシズムから来るものなのか、少なくとも管理人の私には全く見当がつきません。それでも三島由紀夫の死は各方面に多大な影響を与えました。楯の会は1971年に解散しましたが、三島と森田は憂国烈士とされ、死の直後から三島由紀夫の精神を継ごうとする右翼が多く現れました(生前三島は右翼から脅迫状を送りつけられたことがあったにもかかわらず、です)。その中に、一水会などの新右翼もありました。街宣車に三島由紀夫の肖像画が描かれることもあります。1970年以降、毎年この日に一部の右翼民族派が三島由紀夫の追悼行事を行います。それが憂国祭(憂国忌)です。憂国忌は三島由紀夫研究会によって1971年に第一回が行われてから現在までずっと行われています。それに合わせて他の右翼民族派にも追悼行事を行う団体があります。

 ここまで長々と書きましたが、三島由紀夫という人は私のような浅学の徒が理解できるような人物ではないのかもしれません。三島が本当に憂国烈士であったかどうか、それ以前に三島由紀夫という人はどのような感性を持って、どのような芸術を作り上げていったのか、を説明できる人は掲示板または問い合フォームに説明などをお寄せください。

 最後に、三島由紀夫の辞世の句を添えておきます。

 

丈夫のたばさむ太刀の鞘鳴に幾年耐えて今日の初霜

散るをいとう世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐

 

この歌を詠んだとき、あるいは最後に演説をし、腹を切った時、三島由紀夫は何を思っていたのでしょうか。

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