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原敬暗殺 ―「平民宰相」の最期―

1921114日午後725分、原敬内閣総理大臣が東京駅で18歳の駅員、

中岡一に胸を短刀で刺されました。短刀の刃は肺を貫き、心臓にまで達して

いました。午後735分頃、原首相は絶命しました。日本で初めて現職の内閣

総理大臣が殺された事件です。この「平民宰相」の死は日本のみならず世界中

に衝撃を与えました。

 原敬は1856年、盛岡藩(現在の岩手県)の上流武家の次男に生まれました。

従って原敬は本来四民平等では「士族」となるはずでした。しかし、分家により

平民となりました。さらに盛岡藩は戊辰戦争の時旧幕府側につき敗北後差別され

ました。このことから原敬は生涯薩長の人間に対抗心を持っていました。彼の号

である「一山」、「逸山」にもそれが現れています(白河以北一山百文と言われた

ことから)。のちには爵位の授与すらも辞退するようになります。

 一時は農商務省や外務省に勤めますが辞めて新聞記者となり、大阪毎日新聞社

社長となります。そして1900年、立憲政友会に参加しました。その後、西園寺

公望内閣の内務大臣などを歴任します。

 1918年、シベリア出兵による米の買い占めなどにより富山県魚津町から米騒動

が全国に広がります。これを警察や軍を動員して鎮圧した寺内正毅内閣は責任を

問われ総辞職しました。この後、元老の山形有朋は西園寺公望を内閣総理大臣に

しようとしました(慣例上内閣総理大臣になるには元老の推薦が必要でした)が

西園寺公望はこれを拒否し、原敬を推薦しました。これにより、史上初の爵位を

持たない平民の内閣総理大臣が誕生しました。

 原敬内閣は第一次世界大戦での好景気を追い風に、大学などの高等教育機関の

整備、工業化の推進、国際協調などの政策をとりました。具体的には1919年に大

学令を公布し、慶応義塾大学や早稲田大学、法政大学などの私立大学を認可し、

財政支出による鉄道の拡充や産業の奨励などを行いました。また、皇太子(後の

昭和天皇)のヨーロッパ外遊を実施しました。その一方で、軍事費の増額も行い、

軍事費は第一次世界大戦時よりも多くなりました。また1919年、床次竹二郎内務

大臣の斡旋により博徒や土建業者からなる団体の大日本国粋会が結成され、労働

運動を暴力的に抑えました。大日本国粋会は1942年に解散しますが、これが現在

の指定暴力団である國粹會の源流となります。

 その政策も1920年以降の戦後恐慌により景気が悪化すると、財政の悪化により

難しくなり、汚職も頻発し、普通選挙制の実施も見送った(選挙権の納税額条件を

それまでの10円から3円にして、小選挙区制を導入しましたが)ため、国民の中

の期待は失望に変わりました。また、皇太子の外遊は軍部や右翼、さらには野党の

批判を浴びました。その中で、立憲政友会近畿大会に出席するために東京駅に来た

ところを原敬内閣の政策に憤激した中岡一に殺されました。

 この事件は捜査や裁判が迅速に行われ、調書がほとんど残されていないそうです。

中岡一には無期懲役の判決が下されましたが、恩赦によって1934年に出所して

います。その後彼がどうなったかは明らかとなっていません。そのためこの事件が

右翼の陰謀であったなどの説が今も絶えません。

 原敬の死去後、立憲政友会は内紛により内部分裂します。後継の高橋是清が内閣

総理大臣となりますがこの内紛を抑えきれず半年で総辞職します。その後海軍大将

の加藤友三郎が内閣総理大臣となり、政党内閣は1924年に憲政会の加藤高明党首

が内閣総理大臣となるまで2年間姿を消すこととなります。

 原敬は爵位を持っていなかったことから就任当初「平民宰相」と呼ばれもてはや

されました。しかしその宰相が行ったことは大衆ではなく大企業や財閥、富裕層を

対象とした政策でした。その結果政党政治は腐敗していきました。そして腐敗した

政党政治に見切りをつけたある人がその打開策を暴力に求めたのです。平民の首相

が平民に殺される皮肉がここに生まれました。平民の国家元首が当たり前の現代に

おいても、そのような社会が世界のどこかの国に存在するような気がするのは気の

せいでしょうか。

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