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大政奉還 ―武士の時代の終わり―

1867119日、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還の上表を提出し、

政権を朝廷に返上しました。これにより、1603年から264年にわたって続いた江戸

幕府は滅亡し、1185年から続いた武士による政治は終わりました。そして、形だけ

天皇による政治が復活しました。

1850年代後半から1860年代前半、日本は混乱のただなかにありました。いわゆる

「幕末」です。1858年に日米修好通商条約が締結されて以来、輸出超過による物価

の上昇、将軍継嗣問題などで社会も政治も混乱していました。幕府は文久の改革と呼

ばれる改革を実行して対処しましたが、その中で、天皇が再び政治を行う「尊王論」

と外国人を排除する「攘夷論」が合体して、尊王攘夷運動が盛んになりました。幕府

はこれを抑えようと幕府と朝廷の融和を図る「公武合体策」に乗り出しました。

しかし、これも尊王攘夷派の怒りを買い失敗します。その中で、1861年の水戸藩浪士

による東禅寺事件や1862年の薩摩藩浪士による生麦事件、1864年の長州藩による外

国船砲撃事件など外国人を狙ったテロが相次ぎます。こうして幕府の権威は失われ、

政治は次第に行き詰まっていきました。

同じ時期、生麦事件が原因の薩英戦争でイギリスに対し検討するも敗れた薩摩藩は

攘夷が不可能であることを悟りイギリスの協力を経て、改革に乗り出しました。また、

外国船砲撃事件を受けて、アメリカ・イギリス・オランダ・フランスが長州藩の下関

砲台を攻撃しました。敗れた長州藩は36藩の藩兵からなる幕府軍の征伐を受けました

(第一次長州征伐)。そして、こちらも軍政を中心に西洋化を行いました。

1866年、土佐藩の坂本竜馬を仲立ちとして、1863年に禁門の変において京都で戦っ

て以来犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩は秘密裏に同盟し、共同で討幕へと動き出し

ました。これにより、第二次長州征伐はうまくいかず、14代将軍徳川家茂の病死を理

由に撤退しました。また、二度の長州征伐の兵糧による米の不足が全国で百姓一揆や

打ちこわしを引き起こしました。

 幕府は15代将軍徳川慶喜が就任してから、フランスの援助の下に改革を進めました。

その中で、公武合体論から大政奉還を進言されます。こうして1867年、大政奉還が行

われました。ここには、幕府が解体しても、朝廷のもとで諸藩の合議による連立政権の

なかで自分が議長として権力を維持する狙いがありました。その目論見は12月の王政

復古の大号令によりもろくも崩れ去ります。ここでの蟠りが戊辰戦争を引き起こすこと

になります。

 この時代から明治初期にかけての時代が現代の右翼民族派に与えた影響は多大なもの

です。右翼民族派はよく自分たちを幕末の志士に、現在の情勢を幕末の社会になぞらえ

ます。そして「維新」という言葉を好んで使います。街宣車から流す歌の中にも幕末の

人物を詠ったものがあります(面白いことに、街宣車の塗装に新撰組の羽織の模様を使

っている団体もあります)。しかし、幕末では日本の外交ノウハウはほとんどなくなって

いた(それが日米修好通商条約などの不平等条約を締結する一因にもなりました)のに

対し、現代は外交ノウハウがある程度存在する(下手だとよく言われますが)などのこと

から、幕末と現代を比べることは容易ではないと思われます。それにしても、幕末の志士

たちは今の日本をどのような目で見ているのでしょうか。

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