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ノーベル賞授与式 ―平和と発展への栄光―

 18961210日、ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルがイタリアのサンレモで脳溢血のため63歳で亡くなりました。彼が残した遺産は、3100万スウェーデン・クローネ(日本円にしておよそ23億円)ほどであったと言われています。その後ノーベルが残した遺書に基づいて1901年から毎年1210日に賞を授与する式典がノーベルの祖国スウェーデンのストックホルムで(ただし、平和賞だけはノルウェーのオスロで)行われるようになりました(ノーベルが生きていた頃スウェーデンとノルウェーは1つの国でした)。この賞はノーベル賞と呼ばれ、世界で最も権威ある賞の一つとなっています。

 ダイナマイトはニトログリセリンを他の物質に染み込ませて安定化させた爆薬です。ニトログリセリンは1846年にイタリアの化学者アスカニオ・ソブレロによって合成されましたが、反応性があまりにも高く(わずかな振動で爆発します)、取り扱いが困難でした。初めノーベルはこれをそのまま用い、起爆装置で爆破する方法を発明しました。しかし、反応性の高さが問題となりました。1864年には弟のエミールを工場の爆発事故で亡くしています。1866年、ノーベルは試行錯誤を重ね、珪藻土(珪藻の死骸が化石となったもの)にニトログリセリンを染み込ませて雷管を取り付けた爆薬「ダイナマイト」を発明しました。ダイナマイトという名前はギリシャ語のdunamis(力)から取っています。1867年には特許を申請し、1871年には工業生産を始めます。1875年には珪藻土をニトロセルロース(セルロースを硝酸で処理したもの)に変えて爆発力を高めました。この発明は岩盤の爆破など様々な場面で使用され、現在のバクーに作った油田とともにノーベルは莫大な財産を築きました。

 しかし、その成功の裏には影の部分も存在します。生涯で355件の特許を出願したノーベルは、特許権の争いに悩まされました。そのため、ノーベルは弁護士を信用しなくなり、死後、その遺産をめぐって紛糾しました。

 死の前年、ノーベルはノーベル賞のきっかけとなる遺書を書きました。この遺書は3回書き直され、3回目で化学、物理学、医学、文学、平和に貢献した人物に賞を贈るというノーベル賞の原型を示す文言が書かれました。ノーベルは生前この賞に名前を付けていませんでしたが、死後やがてノーベル賞と呼ばれるようになりました。

 この遺言に従い1900年にノーベルの遺産を管理する財団(ノーベル財団)が設立され、授与式を毎年1210日に行うことが決まりました。そして19011210日、史上最初のノーベル賞をレントゲン(物理学賞)、ファントホッフ(化学賞)、ベーリング(医学賞)、プリュドム(文学賞)、デュナンとパシー(平和賞)が受賞しました。1969年にはアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン銀行賞(いわゆるノーベル経済学賞)が創設され、こちらはフリッシュとティンバーゲンが最初に受賞しました。

 現在、ノーベル賞の運営はノーベル財団が運営しています。物理学賞、化学賞、経済学賞はスウェーデン科学アカデミーが、生理医学賞はカロリンスカ研究所が、文学賞はスウェーデン・アカデミーが、平和賞はノルウェー国会が受賞者を選考し、平和賞以外の受賞者にはスウェーデン国王から、平和賞はノルウェー・ノーベル委員会からノーベルを記念したメダルと賞金を記した小切手(金額はその年の財団の運営状況によって変わります)、そして賞状が授与されます。

 ノーベル賞誕生から100年以上が経ちますが、その権威は今後も衰えないでしょう。しかし、後に害となることがわかる発見や(特に平和賞で)受賞をめぐる国家の反発などさまざまな問題をはらんでいるのも事実です。このような状況を、ノーベルはどのように見ているのでしょうか。

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