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リマ日本大使公邸占拠 ―武力革命の終焉―

 19961217日、ペルーの首都リマにある日本大使公邸が社会主義ゲリラ組織

「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」の兵士14人によって占拠され、4ヶ月間にわたる籠城事件が始まりました。結果として特殊部隊による強硬策で一応の解決を見ますが、この事件は日本とペルーのみならず世界中に衝撃を与えました。以降MRTAは表立った活動をほとんどすることなく、暴力路線の放棄を宣言して現在に至っています。

 MRTA1983年、マルクス主義体制の建設を目指してビクトル・カンポスらによって結成されました。1970年に毛沢東主義体制の建設を目指して結成されたセンデロ・ルミノソ(輝ける道、SL)と同様に各地でテロ行為を行い、ペルー国内を混乱に陥れました。しかし闘争の方法として、SLは山岳地帯を拠点とし、政治家から農民まで無差別なテロを行いましたが、MRTAは都市で標的を絞ってテロを行いました。MRTASLのテロを批判したことからMRTAのメンバーがSLの攻撃対象となったこともあるようです。いずれにしても国民は恐怖におののきました。しかし、1990年にアルベルト・フジモリ大統領が就任してから状況が一変します。フジモリ大統領は国民に武器を与え、民兵としてSLMRTAを攻撃させました。また1992年に自己クーデターを起こし、非常事態宣言と戒厳令をだして強硬に政策を推し進めました。このようなテロ対策により、1992年にSLのアビマエル・グスマンがリマで逮捕され、同年ビクトル・カンポスも逮捕されるなど、SLMRTAは急速に勢力を失っていきました。一時は数千人を誇っていたMRTAのメンバーも占拠事件の前には100人前後にまで減少してしまいました。その中で、組織の起死回生を賭して今回の占拠事件を起こしました。また、フジモリ大統領が就任してから、日本政府が経済援助を大幅に拡大したことも事件の日本大使公邸が狙われた原因と言われています。

 19961217日午後8時ごろ、公邸内で天皇誕生日の祝賀パーティーが行われているところを、ネストル・セルパ率いるMRTAの兵士14人が隣の民家から壁を破って侵入し、青木盛久大使や出席していた各国大使など600名以上を人質にとりました。しかし、あまりに人質が多すぎたため翌日には女性や老人など200名を解放しました。MRTAの要求は「捕らえられた450人のメンバーの解放」「経済政策の返還」「身代金」「国外退去の際の身の保障」でした。

 日本政府は話し合いによって平和的に解決するように申し入れ、ペルー政府は即時突入を断念しましたが、ひそかに公邸の地下に向けてトンネルが掘られるなど、突入の淳部が進められていきました。

 一方、占拠が長期化するにつれ、人質は次第に解放されて少なくなり、最終的に72名となりました。公邸の中ではMRTAの兵士たちと人質たちの間にコミュニケーションが築かれていきました。日本語とスペイン語の相互レッスンが行われ、人質たちのしているマージャンやオセロなどにMRTAの兵士たちが加わるという、とても和やかな場もあったそうです。そのうち、MRTAの兵士たちはミニサッカーをするようになりました。このミニサッカーが、最期の時に彼らの致命的な隙となるのです。

 1997年になってからペルー政府とMRTAの直接交渉が始まり、キューバ政府が亡命を受け入れる姿勢を表したものの、 422日、ついにイギリスのSASに訓練されたペルー海軍の特殊部隊が公邸に突入し、MRTAの兵士全員を殺害し、人質を救出しました。当時トンネルの真上でミニサッカーに興じていた11人の兵士たちはトンネルからの爆破に驚き、このうち4人が爆死しました。正面扉やこのトンネルから侵入した特殊部隊は残りの兵士を射殺しました。指令には捕虜を作るなと書かれ、投降しようとした兵士も全員射殺されたそうです。この作戦の過程で2人の特殊部隊の隊員が射殺され、ペルー人の人質1人も死亡しました(政府に批判的であったため暗殺説が囁かれています)。ペルー政府は武力による解決を否定していませんでしたが、日本政府はこの事態を全く想定しておらず、交渉によって解決するものと信じ切っていました(警視庁SAT部隊が現地に派遣される計画が極秘裏にあったようですが)。

 フジモリ大統領はこの対応で当初は称賛を受けましたが、事件の数年前からの強権主義的な政策が目立つにつれ批判を浴び、2000年に大統領選挙における不正をただされ、罷免され日本に亡命します。フジモリは2003年に国際指名手配され、2006年にチリに移住し、2007年にペルーに身柄を引き渡され、汚職や軍による民間人の殺害などで有罪判決が下されました。また、突入を指揮した指揮官は投降したMRTAの兵士を射殺した容疑で訴追されています。

 一方、MRTAはほぼ活動不能に陥り、表立った活動をほとんどすることなく、2007年にビクトル・カンポスは武装路線を放棄する旨の書簡を出しました。SLは今もペルー東部熱帯雨林地域で活動しています。

 この事件について、公邸突入のテレビ中継映像を覚えている方もいらっしゃるかと思います。テロを暴力で完全になくすことは不可能です。その背後にある経済問題や社会問題などを根本から解決しなくてはなりません。強権政治の上ではなおさらです。突入直後、MRTAの兵士たちの射殺に対する抗議活動が世界中でありました。今もこの事件を取り巻くような構造は世界中に存在し、あまり変わっていないように思われます。

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