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北方領土の日 ―正当か偽りか―

 185527日、日本とロシアの間で日露和親条約が締結されました。そして日本とロシアの関係が本格的に始まっていきます。1981年、当時の鈴木善幸内閣でこの日を北方領土の日とすることが閣議決定され、政府は北方領土の返還を国民運動とすることを呼び掛けています。

 1853年にアメリカのペリーが浦賀に来航して以来、外交の形態をほとんど知らない幕府は1854年の日米和親条約を皮切りに次々と対外条約を結んでいました。その中に日露和親条約もありました。その内容としては、国境を択捉島とウルップ島の間に策定すること、樺太の国境は未定とすること、函館と下田と長崎を開港すること、ロシア領事を下田に置くこと、日本がロシアに最恵国待遇を施すことなどでした。のちの日露通商航海条約(1895年)で最恵国待遇の項目が相互的なものに修正されます。

 1981年、鈴木善幸内閣は、北方領土返還への国民世論を受けて、さらに世論を盛り上げるため、さまざまな候補からこの日を「北方領土の日」とすることを閣議決定しました。以来この日には国や北方領土に近い自治体が北方領土返還に関するキャンペーンを行っています。

 右翼民族派もこの日にロシア大使館やロシア領事館に対して北方領土返還を求めて抗議活動を行いますが、右翼民族派団体の中には、この北方領土の日を「インチキ」として粉砕を呼び掛ける団体もあります(右翼民族派にとっての真の北方領土の日がいつなのかはこのウェブサイトのクロニクル全体を見ればわかると思います。ヒントは8です)。

 27日というのはなかなか考えたものです。日露関係が始まった日を北方領土の日としたのは、北方領土返還を要求しつつなお日露友好を期しているものなのでしょう。なお、このような問題に関する私の主張は日革連の主張の領土問題をご覧ください。

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