310

旧陸軍記念日 −日露戦争の関ヶ原−

 1905310日、日露戦争において、半年以上続いた奉天会戦の末に日本軍が奉天(現在の瀋陽)などを占領しました。当然この戦闘では多くの犠牲が出ました。翌年からこの日は「陸軍記念日」とされました。この祝日は第二次世界大戦後に廃止されます(同様に海軍記念日も廃止されます。海軍記念日参照)。

 日露戦争は1904年に始まりました(詳しい経緯は海軍記念日参照)。この戦争は苛烈を極め、19051月の旅順攻城戦に際しては日本軍とロシア軍はともに17千人近い死傷者を出しました。日露双方ともに疲弊し、一刻も早く決着をつけて講和に持ち込みたいと考えるようになります。そのためにはお互いに決定的な勝利が必要でした。

 日本軍は正面から突撃する戦法が得意でした。ロシア軍は後退して敵を引き付けて大陸の奥深くまでおびき寄せ、補給線が伸びきって敵も疲弊したところを攻撃するという戦法が得意でした。ロシア軍は計画的に交代を進め、それを攻撃しようとした日本軍はロシア軍の反撃にあい、損害を拡大していました。一方のロシア軍も、旅順を陥落させた日本軍の能力を過大評価し、慎重な出方を探っていました。

 そのような中、ロシア軍は突然奉天を放棄し、撤退を始めます。これに乗じて日本軍はロシア軍不在の奉天になだれ込むこととなりました。これは戦略的後退でしたが、ロシア軍は撤退の途中で士気が落ち、さらに撤退していきました。しかし、そのロシア軍に追い討ちをかけるほど日本軍には余力が残されていませんでした。結局日露双方ともに、ここでも決定的な勝敗を決することはできませんでした。

 日露戦争の「関ヶ原(大山巌満洲軍総司令官の言葉)」とされた奉天会戦は、一応日本軍の勝利とされましたが、それは相手国が撤退した結果偶然得た薄氷の勝利でしかありませんでした。それを陸軍は大勝利と宣伝し、翌年にはこの日を祝日としたのです。結局日本軍のこの体質は第二次世界大戦まで受け継がれることとなります。日本は第二次世界大戦中も戦況をひた隠しにしながら、陸軍記念日の式典を壮大に開催し、国民の戦意高揚を図りました。さらにアメリカ軍が意図したのか、はたまた偶然なのかは別として、1945年のこの日には東京大空襲が行われ、12万人以上の死傷者が出ました。

また、日露戦争で日本は、自国の2倍の軍を持つロシアとの戦争で、その国力以上の軍を動員し続けるという悲惨な状態となりました。当時の国家予算の約6倍にまで膨れ上がった戦費は公債(国債とイギリスからの債務)と増税によって賄われ、国民は増税に苦しみ、不満を募らせていきました。そして、ポーツマス条約で賠償金が一切支払われないとされたとき、その不満が爆発したのです。

日露戦争は、大日本帝国が(常にではありませんが)国民に我慢と国家への隷属を強要することしかしない権力が支配する国家であったことを示す先例でしょうか。それともそれとはまた違うのでしょうか。

inserted by FC2 system