331

よど号事件 ―明日のジョー―

 1970331日、乗客131名、乗員7名を乗せた羽田空港発・福岡空港行きの日本航空旅客機「よど号」が、田宮孝麿や魚本公博ら共産主義者同盟赤軍派のメンバー9人によってハイジャックされました。新左翼過激派によって引き起こされたこの日本最初のハイジャック事件は日本中を驚かせ、ハイジャック防止法の制定につながりました。

 1950年代、日本共産党はコミンフォルムや中国共産党の批判により所感派と国際派に分裂し、所感派が武装闘争路線を採用しました。しかし、武装闘争は貧弱で、国民の支持を得られず、党勢は衰退します。そのため日本共産党は武装闘争路線を放棄するに至りました。これに反発する党員が共産党を離党し(あるいは除籍され)、様々な左翼団体(新左翼)を作りました。このうち共産党参加の全日本学生自治総連合会(全学連)の会員が中心となって設立したのが共産主義者同盟(ブント)です。ブントは1960年の安保闘争(60年安保)において指導的な役割を果たしましたが、その総括において内紛が生じ解散します。

 しかし、ベトナム戦争の激化とともに三派全学連が再興し、それに呼応してブントも再建し、一時は全学共闘会議(全共闘)として70年安保、そして大学紛争に象徴される学生運動において指導的な役割を果たしました。しかし、それらの闘争も失敗し、新左翼にも多数のセクトが乱立し、内ゲバが激しく展開されることとなりました。共産主義者同盟もその例に漏れず、叛旗派、情況派、戦旗派などに分裂しました。その中で、革命軍(赤軍)の組織を主張し、革命戦争の貫徹を主張したのが赤軍派でした。赤軍派は塩見孝也を議長として1969年に結成され、交番襲撃などを行いました。しかし、同年11月、大菩薩峠付近の山小屋で武装訓練をしていたところを警察に察知され、53人が逮捕され、組織は壊滅寸前となりました。そこで、海外基地として社会主義国へ行き、日本そして世界革命戦争の足がかりをする計画が立てられました。その手段がよど号ハイジャック事件でした。その最中、ハイジャック指令のメモを持ったまま塩見議長が逮捕され、計画が漏洩する危機に立たされました。そこで、作戦が早急に決行されることとなりました(警察はメモの意味を理解することができませんでした)。当初は327日の予定でしたが、飛行機に乗ることに不慣れなメンバーもおり4人が遅刻したため、331日に先延ばしされることとなりました。

 当時は手荷物検査も金属探知機も無かったため、武器は簡単に機内に持ち込まれました。赤軍派軍事委員長の田宮孝麿を中心とするメンバーは機長に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へ航路を取るように要求しましたが、燃料が足りないと言う機長の判断により一旦福岡空港に着陸します。そこで犯人グループは病気の乗客や子供など23人を解放します。

 そしてよど号は朝鮮半島に飛び立ちました。始め北緯38度線を越え北朝鮮領内に差し掛かっていたよど号でしたが、韓国政府の策略によってソウルの金浦(キムポ)空港に着陸しました。この策略が成功したのは犯人グループが朝鮮語も英語も理解できなかったことが理由の一つです。そこでは韓国軍が朝鮮人民軍の制服を着用し、平壌であることを示す歓迎プラカードを用意するなどの偽装工作が行われますが、結局見破られてしまいます(どうして見破られたかは、空港内にアメリカのノースウェスト航空の旅客機が待機していた、事情を知らない兵士がソウルであることを言ってしまった、空港内にアメリカ軍の兵士がいた、金日成の写真を用意できなかったなど諸説があります)。

 日本政府は日本初のハイジャック事件への対応に困惑しましたが、金浦空港へ政府関係者を乗せた特別便が向かい、その中の山村新次郎運輸政務次官(当時)が人質となることを引き換えに乗客と客室乗務員全員が解放されました。その後、国際赤十字、朝鮮赤十字会、ソ連を通じて犯人グループ9人の亡命を打診しました。残りの人質と犯人グループを乗せたよど号は再び北朝鮮に入り、美林(ミリム)空港に着陸しました。犯人グループ9人が北朝鮮当局に投降した後、よど号は人質を乗せて無事福岡へ戻りました。

 事件を受けて政府はハイジャック防止法を制定し、航空機搭乗の際は金属探知機による検査と手荷物検査が義務化されました。また、この年「ハイジャック」が流行語となりました。

 北朝鮮に渡った赤軍派メンバー9人はすぐに北朝鮮のチュチェ思想に染まり、北朝鮮政府の工作活動に従事しているとされています。また、その後9人と結婚した妻たちとともに日本人拉致問題にも関わったとされ、赤軍派メンバー9人とその妻たちは国際指名手配されています。このうち田宮孝麿は1995年に病死し、岡本武と吉田金太郎は不審な死を遂げ、柴田泰弘は1988年に神戸市内で、田中良三は1996年にカンボジアでそれぞれ逮捕され、現在4人が北朝鮮で活動しているとされています。なお、岡本武の弟はテルアビブ空港乱射事件の実行犯の1人である岡本公三です。

 赤軍派の一部は中東に渡りパレスチナ解放戦線の庇護の元で「日本赤軍」を組織します。国内に残った赤軍派の残存勢力は京浜安保共闘と合同し「連合赤軍」を作りますが、同志のリンチ殺人や浅間山荘事件などで壊滅してゆきます。

 このページの副題は赤軍派が残した犯行声明文の、「我々は明日のジョーである」という文に由来しています。北朝鮮を自らの思想に染め上げ、どれほど国境の警備が厳しかろうと再び日本に舞い戻って日本革命戦争を遂行するという意味が込められています(もちろん漫画の「あしたのジョー」から取っています)。新左翼運動が沈静化して久しい今日、新左翼運動を担った左翼団体は現在も活動しています。しかし、その団体の多くは社会主義や共産主義とは距離を置くようになっています(もちろん距離を置かない団体もあります)。赤軍派の革命思想はどこへ行ってしまったのでしょうか。そもそも、社会主義や共産主義は現実に無力であったのでしょうか。私もこのウェブサイトに「革命」の文字を掲げていますが、それは行き過ぎる中身の無い右傾化に逆らうためにつけた名です。社会主義や共産主義が正しいかどうかは分かりません(私としては人間の構造が欲望に左右されないのであれば、社会主義や共産主義は理想的なものであろう、と申し上げておきます)。しかし、現代の社会に対して、何らかの形で「革命」が必要であろうということは痛切に感じます。

戻る

inserted by FC2 system