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チェルノブイリ原発事故 ―ソ連社会主義の果て―

 1986426日午前123分(日本時間午前8時ごろ)、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)のチェルノブイリ原子力発電所(現在のウクライナ北部にあります)の原子炉の1つが爆発し、広範囲にわたって放射能汚染が広がりました。この歴史史上最悪といわれる原発事故は世界中を恐怖に陥れ、世界の原子力政策のみならず、ソ連にグラスノスチ(情報公開)などの改革を決断させるなどの影響を与えました。

 原子力発電は核物質の核分裂を制御し、そこで発生した熱で水を加熱して蒸気を発生させ、タービンを回して発電するものです。核分裂の調節は中性子吸収素材でできた制御棒の出し入れによって調節します。ソ連が開発した原子炉では制御棒は炭化ホウ素でできており、黒鉛の塊で中性子を遮蔽していました。チェルノブイリ原発は1977年に1号炉が操業を開始しました。1978年には2号炉が、1981年には3号炉が操業を開始し、事故を起こした4号炉は1983年に操業を開始しました。しかし、完成を急ぐあまり耐火性を無視する(可燃性の資材を用いる)など建設作業は杜撰でした。

当時、定期点検のため操業を停止していました。その際に原子炉の出力低下を想定した非常冷却水ポンプ始動実験が行われる予定でした。このポンプはタービンの慣性回転を利用したものです。しかし、現場を任されていた副技師長の判断で予定(700メガワット)より低い出力(200メガワット)で実験を開始することになりました。ところが、操作ミスで出力を下げ過ぎて、出力がほとんどゼロになってしまいました。そこで、制御棒をほとんどすべて引き抜くという処置によって、何とか200メガワットの出力で安定させます。このとき原子炉内では核分裂反応が激しく進む条件となり、とても危険な状態でした。しかし、運転していた技師たちはそれに気付いていませんでした。そもそも運転に携わっていた技師たちも放射線の危険性をあまり知りませんでした(所長に至っては通信教育を受けただけでした。それまでにもソ連国内で原発事故はありましたが、原子力政策は冷戦の中で、国家の威信を保つために隠蔽されてきたのです)。出力が安定してきたため、実験を始めるために水蒸気供給バルブを停止し、冷却水ポンプ8台のうち4台を非常電源に接続しました。そのため循環する冷却水量が減少し、発生した水蒸気によって炉心内の圧力が上昇しました。そこで技師たちは炉心緊急停止装置を作動させ、制御棒をすべて炉心に差し込みました。ところが、これによりポジティブスクラムと呼ばれる現象が発生し炉心の出力は急上昇しました(これはソ連の開発した原子炉の構造的な欠陥が原因でした)。これにより、炉心内の圧力は急激に高まり、圧領調節のための配管が破壊されました。それにより炉心上部構造板が持ち上がり、制御棒が途中までしか挿入されませんでした。そして、4号炉は爆発し、黒鉛の燃焼による火災が発生しました。この瞬間から、広島に投下された原爆の500倍ともいわれる強力な放射線、放射性物質が周辺に、そして全世界に飛散し始めたのです。

事故が起こってからすぐに消火活動が始まりましたが、放射線の知識を何も持っていない消防士たちも次々と被曝しました。事故の責任を問われることを恐れ、現場の作業員や原発の所長は事故発生を隠蔽し、翌朝、チェルノブイリ原発近郊の都市プリピャチでは市民は何も知らぬまま時を過ごしていました。そして翌日の昼ごろ、身分証明書と3日分の食料を持って非難するようにというラジオ放送が流れ、プリピャチの住民は避難を始めました。

事故が起こった時の外部への情報伝達も杜撰でした。事故が起こった直後、原子炉周辺の計器類の性能が悪く、故障しているものもあったことから、原発の職員たちは、原子炉は破壊されていないと報告し、所長も上層部に原子炉は破壊されていないと報告しました。しかし、被爆者が増えるにつれ、原子炉が破壊されていることも判明し当初ソ連政府はこの事故を秘匿としました。しかし、チェルノブイリ原発から1100km離れたスウェーデンのフォルスマルク原発からチェルノブイリ原発由来と思しき放射性物質が検出され、ソ連は428日に事故発生を認めました(詳細は伏せられました)。この事故は世界中を恐怖に陥れ、日本でも原子力に対する懐疑の声が上がりました。当時のゴルバチョフ書記長は情報伝達の悪さにいら立ち、グラスノスチ(情報公開)を始めとするペレストロイカ(改革)のきっかけとなりました。

爆発後、通常の消火活動では消防士の被爆者が増えるばかりであるため、砂・鉛等の放射線を遮蔽する資材の空中散布による消火活動が行われ、56日に鎮火しました。そこから、放射性物質の漏出を防ぐため、ソ連全土から60万人の労働者が集められ、爆発した炉心全体を覆う鉄筋コンクリート製の建屋を建てることになりました。これが、いわゆる「石棺」です。石棺は11月に完成し、現在まで放置されています。

この未曾有の事故の被害は甚大という言葉を越えていました。4号炉から放出された放射性物質は北半球全域に飛散し、486の村が居住不能となり、周囲30km以内は封鎖され、許可を得た人以外は入れません。また、旧ソ連諸国内で汚染された農作物が検査基準を改竄して流通し、汚染が拡大しました。また、公式な死者は31人とされていますが、正確な被災者の数は今もってはっきりとはしていません。例えば、放射性原子ヨウ素131による子供の甲状腺癌が汚染地域で急増した他、白血病などの病気も放射線との関係が疑われています。この他に、「石棺」の建設に従事した労働者たちは充分な作業着を与えられず、被爆によりこれまでに55千人以上が死亡しています。

現在、チェルノブイリは、広島・長崎と並ぶ核の悲劇の象徴となっています。そして、チェルノブイリ原発は未だに新たな核汚染のリスクを抱えています。「石棺」は老朽化が著しく、倒壊すれば中に残っている放射性物質が飛散することになります。現在、新たな「石棺」の建設が計画されていますが、予算の不足などの理由で具体化されていません。また、事故の直後に生まれた子供が結婚適齢期となり、多くの若者が苦悩を抱えています。また、避難した人の中にも、避難先の環境になじめず、立ち入り禁止区域に戻ってきて生活している人もいます。チェルノブイリ原発事故は起こるべくして起きた「人災」です。逆にいえば安全性の確保や放射性物質の危険性の認知が徹底して行われていれば、防ぐことができた事故でした。この事故は、安全管理の欠陥がもたらした放射能汚染の中でも最悪の部類に入ります。世界で唯一核弾頭が実戦使用された国である日本でも1999年の茨城県東海村の臨界事故が起こったことなど、安全性の確保が十分ではない可能性があります。今一度、核兵器についてだけでなく、核エネルギーの安全性についても見直すべきではないでしょうか。

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