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サイゴン解放(陥落) −アメリカの屈辱−

1975430日、当時のヴェトナム共和国(南ヴェトナム)の首都であったサイゴン(現在のホーチミン)がヴェトナム民主共和国のヴェトナム人民軍に占領されました。これにより南ヴェトナムが崩壊し、15年にわたったヴェトナム戦争は終結しました。アメリカはトンキン湾事件をでっち上げて軍を直接投入してまで防ごうとしたインドシナ半島の共産主義化をとうとう防ぐことができませんでした。

1960年、南ヴェトナム領内に南ヴェトナム解放戦線(NFL、いわゆるヴェトコン)が結成され、南ヴェトナム政府への攻撃を始めました。これに対しアメリカは当初南ヴェトナムを支援していました。しかし当時の南ヴェトナム大統領ゴ・ディン・ディエンは仏教徒への弾圧などのため国民に不人気でした。1963年軍のクーデターによりゴ・ディン・ディエンは秘密警察の長官を務めていた弟と共に死亡します。アメリカはこのクーデターを黙認しました。196482日、84日にアメリカ海軍はトンキン湾で北ヴェトナム軍の攻撃を受けたとして北ヴェトナムの魚雷基地を攻撃します。いわゆる「トンキン湾事件」です。この事件は1971年にニューヨークタイムズの記者によりアメリカ軍の謀略であることが暴露されます(注:84日の事件のみです)。87日には当時のアメリカ大統領リンドン・ジョンソンに軍事大権を認める決議を付託します。

19652月、北ヴェトナムへの爆撃、いわゆる「北爆」が開始され、3月にはアメリカ海兵隊がヴェトナム中部のダナンに上陸し、ヴェトナムへのアメリカ軍の直接介入が始まりました。北爆ははじめ北ヴェトナムの軍事施設を中心に他国の戦闘機や船舶を攻撃しないように行われましたが、損害が拡大する一方となったので、ほとんど無差別爆撃に等しくなっていきました。その映像がイギリスのカメラマンを通じてアメリカのローカルテレビ局が放送し、反戦感情が高まりました。そのため北爆は1968年に中止されます。

1968129日、旧正月(テト)にNFLの兵士がサイゴン各地で攻撃を開始しました。いわゆるテト攻勢です。これによりアメリカ大使館がNFLによって占拠されました。アメリカ軍は3日をかけてNLF勢力を壊滅させます。しかしその一部始終がテレビ中継されアメリカ国民に戦局が有利でないという意識を植え付けました。さらにNFLゲリラの将校を南ヴェトナム警察庁長官が裁判なしに路上で射殺する映像が全世界に流れ非難が沸き起こりました。この後もフエ事件やソンミ村の虐殺などNFL、アメリカ軍双方の残虐行為が行われます。

当時アメリカはマーティン・ルーサー・キング2世(キング牧師)などを筆頭に公民権運動が盛んでした。その運動はやがて反戦へと結びついていきました。ヒッピーやサイケデリックアートがはやったのもこの時代です。アメリカだけでなく、世界中で反戦活動が行われました。その中心にいたのは若者たちです。彼らにとって反戦活動は、単に戦争反対を唱えるだけでなく、大人が作った既存の価値観を打破する戦いでもありました。このサイトにリンクが貼られている左翼団体の一部はこのころに形成されました。またこれを抑えるために右翼団体も活動します。現代の日本の右翼団体の活動形式の原型ができたのもこの時代です。

1968年、ジョンソン大統領が反戦世論によって続投をあきらめ、リチャード・ニクソン大統領が就任します。ニクソンはアメリカ軍のヴェトナムからの段階的な撤退を進める公約を掲げます。しかし1970年、アメリカはNFLや北ヴェトナムへのソ連や中国の援助を絶つためにカンボジアに侵攻します。1972年には北爆も再開されました。これにより北ヴェトナムも大損害を受けて1972年アメリカと南北ヴェトナムの間でパリ協定が結ばれました。これにより1973年にアメリカ軍は完全にヴェトナムから撤退します。これにより南ヴェトナムの戦力が北ヴェトナムより劣ることが決定的になりました。

19754月、とうとうヴェトナム人民軍がサイゴンに迫りました。南ヴェトナムはアメリカに軍事支援を要請しましたが、アメリカは北ヴェトナム川とサイゴン陥落についての打診があったため拒否します。このころにはアメリカは南ヴェトナムを完全に見捨てていました。そしてこの日、在留アメリカ人の退去を待ってからヴェトナム人民軍がサイゴン市内に突入します。すでに士気が下がりきっていた南ヴェトナム軍はほとんど抵抗を行いませんでした。

ヴェトナム戦争は東南アジアにおける混乱を拡大し、今も禍根を残しています。占領されたのち共産主義を恐れて南ヴェトナムを脱出した人々、いわゆるポートピープルが今も世界中にいます。またこの戦争でアメリカ軍が使用したクラスター爆弾による被害や枯葉剤による先天的奇形児の発生などもあります。戦争により破壊されたインフラの回復にも長い年月がかかりました。カンボジアやラオスなどインドシナ半島は共産主義化していきました。カンボジアでは1975年にクメール・ルージュが首都プノンペンを占領し、毛沢東の大躍進政策の影響を受けた極端な政策を行い国民の3分の1に当たる170万人が虐殺されました。1978年にはヴェトナム軍が侵攻しその庇護のもとで建てた政権と1991年まで内戦となりました。ここで注意しておきたいのはアメリカがクメール・ルージュを支援し、国連代表権もクメール・ルージュにあったと言うことです。ヴェトナム労働党はソ連の支援を受けていました。クメール・ルージュは中国と朝鮮民主主義人民共和国が支援していました。すでにアメリカは1972年に中国と国交を結んでいます。中国は1969年にソ連と武力衝突するなど関係が悪化しています。1979年にはヴェトナムとも武力衝突しています。そこで中国の支援しているクメール・ルージュを支援してソ連に対抗しようとしたのです。

1976年、南北ヴェトナムは統一されてヴェトナム社会主義共和国となりました。1995年にアメリカとヴェトナムは国交を結びました。しかし戦争の傷跡が消えるのは時間がかかりそうです。今もアメリカ・カリフォルニア州に南ヴェトナムが自由ヴェトナム暫定政府という亡命政府として存在します。

ちなみにジョンソン大統領は民主党、ニクソン大統領は共和党です。

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