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五・一五事件 ―成否を誰かあげつらう―

 1932515日午後530分ごろ、首相官邸において当時の犬養毅総理大臣が海軍青年将校に拳銃で腹部と頭部を撃たれ、6時間後に死亡しました。これにより1924年から続いていた大日本帝国における政党政治は終焉を迎えます。そしてこの事件は支配層を震撼させると同時に、軍部に対する批判を委縮させ、1945年まで続く軍国政治の嚆矢となったのです。

 1930年代初頭、日本は混沌とした状況にありました。前年の世界恐慌の影響を受けて不況が蔓延し、欠食児童や娘の身売りに代表されるように農村は困窮し、芸術もエロ・グロ・ナンセンスに象徴されるように頽廃的なものが流行しました。その一方で政治の世界では立憲政友会と立憲民政党の権力争いが激しく、政治家と財界が癒着し、政治家の汚職が横行しました。

その中において、この状況を武力によって打開する思索があちこちで起こりました。右翼が引き起こした浜口雄幸総理大臣銃撃事や血盟団事件などがそれにあたります。その動きは軍の内部においても例外ではありませんでした。三月事件、十月事件などのテロ・クーデターを行いました。そしてその中で三上卓海軍中尉などが民間の右翼と共同で立案した計画が五・一五事件でした。それによれば、犬養首相の殺害だけでなく犬養首相が総裁を務める立憲政友会本部、警視庁などの公的機関、東京周辺の変電所を襲撃し、東京を暗黒化することで戒厳令を敷かせる手はずでした(当日犬養首相と対談する予定であったチャーリー・チャップリンも襲撃対象となっていましたが、対談の直前にその予定をキャンセルしたため難を逃れました)。しかし、結果として犬養首相の殺害以外の行動は失敗してしまいます。

犬養首相の殺害には3つの部隊に別れて実行されました。このうち三上卓中尉の率いる部隊は犬養首相によって客間へ案内されました。犬養首相が自身の政治信条を語ろうとしました。しかし、残りの部隊も到着し、そのような話を聞く気もない三上卓は拳銃を犬養首相に向けました。その時犬養首相は「話せばわかる。」といいました。その後、日本間に行き、「靴ぐらい脱いだらどうじゃ」と促しました。しかし、三上卓中尉が「靴の心配は後で良いではないか。今何かいい残すことはあるか。」と問いました。犬養首相が何かを言おうとしたとき、山岸宏海軍中尉が「問答無用、撃て。」と言って犬養首相の腹を撃ちました。続いて三上卓中尉が犬養首相の右こめかみを撃ちました。撃たれた犬養首相はまだ意識があり、「今の若い者をもう一度連れて来い、よく話して聞かせるから」と女中に言ったと伝わっています。しかし、6時間後に容体が悪化し死亡しました。

事件は大きく報道され、「純粋に日本を憂い」、成功や失敗を考えず、死を覚悟していた青年将校たちの行動は政党政治の腐敗に失望していた当時の国民の支持を集め、助命嘆願運動まで行われました。そのため、軍法会議でも裁判でも参加した軍人や元軍人は重い処罰は受けませんでした。これが二・二六事件勃発への後押しになったと言われています。

社会が何の深刻な問題も抱えていなければ、彼ら「青年将校」がここまでの事態を起こさず、その行動も国民から支持されることはなかったでしょう。しかし、このような事態が起こったということは、当時の社会がどれほど深刻な状況にあって、当時の国民がいかに当時の社会情勢に絶望していたかを示していると言っても過言ではないでしょう。そして、何でもいいからこの暗鬱とした社会情勢を打破してくれそうなものを「青年将校」たちに見出したのではないでしょうか。そしてその風潮の行き着いた先が、「思考と対話」ではなく「至純と行動」こそが至上のものと考えられる社会でした。動機さえ正しければ何をしても許される、滅私奉公こそが何よりもよいという風潮が生まれたのではないでしょうか。そして、その風潮を利用して、政府(あるいは軍部)は本格的に戦争に向けた総力戦体制を作り上げていくのです。このような状況はこの時代のみならずいつの時代でも繰り返されているのかもしれません。

言うまでもありませんが、動機さえ正しければ何をしても許されるわけがありません。(韓国併合に際して伊藤博文を射殺した「朝鮮独立の志士」安重根をテロリストと呼ぶならば)政党政治が腐敗しているとして犬養首相を殺害するのはテロ行為という犯罪以外の何物でもありませんし、実際に、犬養首相を殺害したところで青年将校たちが考えていたような未来(農村の状況が改善される、腐敗が一掃されるなど)は訪れませんでした。

ところで、五・一五事件を起こした青年将校の内の一人、三上卓中尉は、1930年に「青年日本の歌」を作詞作曲しています。この歌は別名「昭和維新の歌」といい、右翼民族派の街宣車からしばしば流されています(戦時中は革命歌として歌唱が禁止されていました)。このページの副題もこの歌の9番の最後の歌詞から取っています。著作権の関係上ここでは載せませんが、人に決起を促す内容です。なお、三上卓は第二次世界大戦後、右翼活動家として活動し大きな影響を残していくこととなります。なお、岐阜市には三上卓の号である大夢に因んだ大夢館がある他、毎年この日には岐阜護国神社において大夢祭と呼ばれる行事が行われます。

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