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沖縄慰霊の日 ―悠久の大義とは―

 1945623日、南西諸島の防衛にあたっていた沖縄で陸軍第32軍の牛島満総司令官以下司令部が自決し、沖縄における日本軍の組織的な抵抗が終了しました。その後1972年までアメリカ軍による占領・統治が続き、返還後も現在までアメリカ軍の駐留が続くことになります。

19447月にサイパン島が陥落してから、いよいよ日本本土への侵攻が迫っていました。1945326日、アメリカ軍が沖縄諸島への攻撃が始まり、41日、アメリカ軍が沖縄本島中部の嘉手納に上陸しました。アメリカ軍は3日までに沖縄本島中部を占領し、次いで22日までに島の北部を制圧しました。一方、日本軍は首里に司令部を構え、アメリカ軍を引き付けて南部で迎え撃つ持久戦を展開することになり、4日、首里を中心とする防衛線で戦闘が始まりました。7日、陸軍を支援するために沖縄に向かっていた戦艦大和が徳之島沖で撃沈されました。53日〜4日、第32軍は首里防衛線で総反撃に失敗してしまいます。以降アメリカ軍は攻勢に転じて、多大な犠牲を払いながらも日本軍を撃破していきました。その結果527日に日本軍は首里を放棄し、摩文仁(まぶに)に後退します。アメリカ軍は日本軍に投降を呼びかけつつ進撃し、623日早朝、司令部の洞窟で牛島司令官と長勇参謀長が自決しました。しかし、部隊内の通信が困難になっていた日本軍による散発的な抵抗はなおも続き、沖縄守備隊が正式に降伏文書に調印したのは大日本帝国が降伏文書に調印した92日よりも後の97日になってからでした。

この沖縄戦において、大日本帝国は沖縄の領土と住民を守らず、むしろ沖縄を「捨て石」として利用しました。沖縄戦によって連合国と有利な条件で講和できるように、あるいは本土決戦のための時間を稼げるように、沖縄を利用したのです。多くの住民が動員され、精神的な退路を断たれたままアメリカ軍に追いつめられた者たちは自決しました。沖縄戦の間に当時の県民の5分の1にあたる12万人以上が死亡しました。多くの学生たちが動員され、ひめゆり部隊などの現代まで語り継がれる多くの悲劇が起こりました。また疑心暗鬼の状況で、日本軍にスパイとして処刑された住民も少なくありませんでした。沖縄方言を話すことすら、スパイとして疑われる行為になりえました。

最期の時、牛島司令官は「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」、沖縄戦で海軍を指揮した大田実中将は「沖縄県民斯く戦えり 県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」と遺しました。2人の言い遺した「悠久の大義」、「特別の御高配」は果たして沖縄戦から現在に至るまで沖縄にあったでしょうか。1972515日、沖縄が日本に返還されましたが、現在も在日アメリカ軍基地の7割以上が集中し、それが沖縄本島の面積の2割近くを占めています。本土にあったアメリカ軍基地の撤退が進みましたが、沖縄のアメリカ軍基地の縮小は一向に進みません。そして今も辺野古新基地建設のために、多くの抗議運動にもかかわらず森林の伐採や海の埋め立てが強行されています。明治以来、琉球処分で琉球王国が強行的に沖縄県として編入され、沖縄戦で多大な犠牲を払ったのち、本土と切り離されてアメリカ軍の直接統治下におかれた沖縄の人々を、本土は同じ日本国民として受け入れていると言えるでしょうか。今こそ、本土の国民は、沖縄の抱える「痛み」により添っていかなければなりません。

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