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サライェヴォ事件 ―世界大戦の始まり―

 1914628日、当時のオーストリア=ハンガリー帝国のフェルディナント皇太子がサライェヴォ(現在のボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都)でセルビア人のガブリロ・プリンツィプによって射殺されました。これにより、セルビアにオーストリアが宣戦布告し、オーストリアに敵対していた国やオーストリアと同盟関係を結んでいた国が次々と参戦し、人類史上初の世界大戦となる第一次世界大戦が勃発しました。

 1870年ごろまで、オスマン帝国がバルカン半島を支配していました。しかし、1878年にオスマン帝国はロシアとの戦争(露土戦争)に敗れセルビア、ルーマニア、ボスニア、モンテネグロなど諸民族が次々と独立しました。同年のベルリン条約でブルガリアがオスマン帝国内の自治領とされ、ボスニア、ヘルツェゴヴィナの行政権をオーストリアが獲得しました。ブルガリアは露土戦争の講和条約サン=ステファノ条約では独立国でしたが、ベルリン条約で国土を縮小したうえで自治領とされました(1881年独立)。これはスラブ民族の団結を主張したパン・スラブ主義によりバルカン半島への勢力拡大を画策するロシアにオーストリアやイギリスが反発し、ドイツが仲介した結果でした(オーストリアは国内に多数の民族を抱え、独立運動が国内に波及することを恐れていました。イギリスは地中海の航路がロシアの影響下に置かれることを恐れていました)。1908年、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合しました。これに対しロシアは1912年にセルビア、ブルガリア、ギリシア、モンテネグロにバルカン同盟を結成させて対抗しました。1912年、バルカン同盟はイタリア・トルコ戦争をしていたオスマン帝国と第一次バルカン戦争を起こし、勝利します。しかし翌年戦勝国の領土分配をめぐってブルガリアと他国が対立し第二次バルカン戦争が勃発しました。この戦争でブルガリアは敗れ、ドイツやオーストリアに接近しました。このように、サライェヴォ事件当時、バルカン半島は複数の民族対立が入り乱れ、さらに大国の思惑が入り乱れる「ヨーロッパの火薬庫」でした。

 事件はフェルディナント皇太子とその妻ゾフィーがサライェヴォの市庁舎を視察した時に起こりました。事件を首謀したセルビア民族主義組織「黒手組」の7人は暗殺を3つの班に分けて行いました。1つは建物の窓から皇太子を狙撃する班でした。しかし、照準が定まらず失敗します。2つ目の班は、群衆の中から爆弾を投げ込んで皇太子の乗った自動車を爆破して殺害する班でした。しかし、投げ入れた爆弾が跳ね返り、皇太子の乗った自動車の後続車列で爆発し多数の負傷者が出ました。皇太子は市庁舎を訪れた後予定を変更してこの時の負傷者の見舞いに行くことにしました。その時運転手が道を間違えたため、計画の失敗を悟り半ば暗殺を諦めていた黒手組のガブリロ・プリンツィプが食事をしていた食堂の前を皇太子の乗った車が通り、バックするために停車しました。プリンツィプは駆け寄って拳銃を取り出し、2発発砲しました。1発目は皇太子の首にあたり、2発目はゾフィーの腹部に命中しました。2人は病院に運ばれましたが死亡しました。皇太子の最期の言葉は、「ゾフィー、ゾフィー、死んではいけない。子供たちのために生きてくれ。」でした(当時皇太子とゾフィーの間には3人の子供がいましたが、貴賎結婚であったため3人とも皇位継承権は持っていませんでした。ゾフィーも皇族を名乗ることができませんでした)。この事件の真相はいまだによくわかっていません。フェルディナント皇太子と当時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は貴賎結婚の問題で別居するほど仲が悪く、この事件はフランツ・ヨーゼフ1世による謀略ではないかともいわれています。

 オーストリアはこの事件をセルビア政府が関与していると判断し728日にセルビアに宣戦布告しました(セルビア政府が関与していたかどうかは今もわかっていません)。これに対しロシアがセルビアを支援し、オーストリア、イタリアと三国同盟(1882年締結)と結んでいたドイツがオーストリア側に立って参戦し、8月、ドイツがベルギーに侵攻したことによりベルギーが、露仏同盟(18911894年締結)によってフランスがロシア側に立って参戦しました。ドイツと植民地政策で対立し、ロシアと英露協商(1907年締結)を締結していたイギリスがドイツに宣戦布告し、日本も日英同盟(1902年締結)に従ってドイツに宣戦布告しました。こうして、ドイツ・オーストリア・ブルガリア・オスマン帝国(トルコ)からなる同盟国側と、イギリス、フランス、ロシアなどからなる連合国側との歴史史上初の世界大戦となる第一次世界大戦が勃発しました。この戦争は世界に激変をもたらしました。戦争が長期化し、国の総力を挙げて行うものとなり、戦車、戦闘機、潜水艦、毒ガスなどの新兵器が使われました(女性も労働力として利用されたことから戦後女性の社会進出が進み、女性の参政権の獲得につながりました)。戦争における大量殺戮の時代が始まったのです。イタリアはオーストリアとの領土問題から三国同盟から寝返り連合国側につきました。ロシアでは戦争による民衆の困窮から1917年にロシア革命が起こり、ロマノフ王朝による帝政が打倒され、最終的にレーニンを最高指導者としたソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が形成されました。ロシアは1918年ブレスト=リトフスク条約により同盟国と単独で講和します。4年間の戦争の結果は連合国の勝利に終わりました。オーストリアでは皇帝カール1世が退位を宣言し、神聖ローマ帝国の時代から500年近く続いたハプスブルク王朝による帝政が崩壊しました。ドイツではキール軍港での水兵の反乱によりドイツ革命が起こり、皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、ホーエンツォレルン王朝による帝政が崩壊しました。日本は中国や南洋諸島でドイツと戦い、勝利しました。そしてドイツが持っていた権益を日本が継承し、南満州鉄道の租借権を99カ年延長するといった内容の二十一カ条の要求を出し、中国政府に認めさせるなど、アジアにおける権益の拡大工作を行いました。アメリカは初めこそ中立の立場をとっていましたが、アメリカ人を乗せたイギリス船がドイツ軍の潜水艦に撃沈されると連合国側で参戦しました。アメリカは主戦場ではなかったため、戦争による被害をほとんど受けず、戦争で疲弊したヨーロッパの連合国に代わって超大国となる基礎を固めました。その後、1919年のパリ講和会議での同盟国に対する報復的な内容(全植民地の没収、領土の大幅削減、巨額の賠償金など)は同盟国民の不満を募らせ、やがて第二次世界大戦を引き起こすこととなるのです。

 第一次世界大戦は当時のアメリカ大統領ウィルソンが言うように「汚い帝国主義戦争」でしかありませんでした(アメリカも「汚い帝国主義国家」でしかありませんでしたが。当然日本もです)。この戦争で現代の戦争の原型が出来上がったといっても過言ではないでしょう。歴史はほんの些細な事象で大きく動くということを教えているかもしれません。第一次世界大戦についてイギリスのウィンストン・チャーチルは以下のように述べています。

戦争からきらめきと魔術的な美がついに奪い取られてしまった。アレキサンダーや、シーザー(カエサル)や、ナポレオンが兵士達と共に危険を分かち合い、馬で戦場を駆け巡り、帝国の運命を決する。そんなことはもう、なくなった。これからの英雄は、安全で静かで、物憂い事務室にいて、書記官達に取り囲まれて座る。一方何千という兵士達が、電話一本で機械の力によって殺され、息の根を止められる。これから先に起こる戦争は、女性や、子供や、一般市民全体を殺すことになるだろう。やがてそれぞれの国には、大規模で、限界のない、一度発動されたら制御不可能となるような破壊のためのシステムを生み出すことになる。

 とても意味の深い言葉でしょう。第二次世界大戦中、前述の状況が実現されることとなりました。「大規模で、限界のない、制御不可能なシステム」が永遠に発動されないことを願うばかりです。

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