64

天安門事件 ―共産主義と民主主義の狭間で―

 198963日深夜〜64日未明、中華人民共和国・北京で民主化を求めて集会を行っていた学生たちに対して人民解放軍が出動して武力鎮圧し、多数の死者が出ました。のちに六四天安門事件と呼ばれるこの事件により中国は冷戦終結に向かっていた世界中の資本主義国や中国と対立していた社会主義国の非難を受け、最恵国待遇や武器輸出の停止、IMF(国際通貨基金)の融資停止などの経済制裁を受けました。

 1976年に毛沢東の死によって中国で吹き荒れた社会主義純化運動(文化大革命)が終結し、ケ小平の主導で中国社会は資本主義を取り入れるようになります。その流れの中で、若者たちの間で民主化の機運が高まり胡耀邦中国共産党総書記が1986年に言論の自由化を提唱します。しかし、党内の保守派の反発にあい失脚させられました。後継となった趙紫陽は1988年に公定価格を廃止したことによって発生したインフレの責任を取り辞任します。

1989415日、胡耀邦が死去します。改革派であった胡耀邦の追悼集会が民主化を主張する学生たちなどによって行われました。それに伴い民主化を求めるデモが度々行われるようになり、しだいに中国政府と衝突することになります。中国政府は何とか学生たちの行動を鎮圧しようとしますが、抑え込むことができず、515日にソ連のゴルバチョフ書記長が北京を訪れた時には、天安門広場をはじめ北京市内の至るところで民主化や共産党内の汚職撲滅を要求するデモが行われ、訪問の際に行われる予定であった行事を中止に追い込まれるといった影響が出ました。517日にゴルバチョフが帰国した後の519日、中国政府は北京に戒厳令を発令し、共産党の分裂を示唆したとして趙紫陽は中国共産党の全役職を更迭され、自宅軟禁されました。北京では報道管制が敷かれ、世界各国は自国民に中国から退去するように勧告しました。そして、武力鎮圧の時が訪れます。63日深夜、天安門広場に人民解放軍の装甲車が突入し、抵抗する民衆に無差別発砲し、装甲車で民衆を轢死させました。これにより民衆には多数の死傷者が出ました。中国政府の公式な見解では死者300人程度となっていますが、正確な死者数はいまだにわかっていません。この時の映像はアメリカのCNNやイギリスのBBCなどのマスコミによって世界に報道され、衝撃を与えました。事件後、中国国内の民主化運動は鎮静化し、民主化運動の活動家は国外の活動家の助けで国外逃亡するなどしました。この事件に対し世界中の資本主義国(シンガポールなど一部の国を除く)やベトナムなど社会主義国であっても中国と対立する国が中国政府の行動を非難しました。また、中国政府にはIMFの融資停止や最恵国待遇、武器輸出の停止などの経済制裁が科されました。現在でも中国政府はこの事件は一部の学生が起こした「暴乱」であるとしており、国外亡命した学生たちの入国を認めていません。亡命した民主化運動活動家の支援者は世界中におり、日本の右翼民族派の一部もこうした活動家を支援しています。

1980年代に中国で進んだ経済開放政策は、中国共産党の権威を脅かすまでになっていました。そのため、中国政府は武力鎮圧に踏み切ったのです。この武力鎮圧は資本主義(民主主義)の中国内部への浸透に対する恐怖心、そして社会主義体制への資本主義の導入から生じる社会矛盾から行われたものと思われます。これらのことで中国との関係を断絶することはできないでしょう。今や中国は世界にとってなくてはならない存在となりました。しかし、中国がどれほど大国となろうとも、民主化運動を武力で抑圧した中国共産党の行為が忘れられることは永遠にありません。ましてや、そのような民衆弾圧が許されるはずがありません。それは共産党のする行為ではありません。天安門事件は必ずや中国共産党の歴史に巨大な汚点を残すでしょう。中国共産党は、2008年にチベットで行ったようにいつまでも反対派を武力弾圧すれば安定が保たれるという考えが間違いであることに気付くべきです(中国共産党の中には気付いている人がいるかもしれません、あるいは気付きつつ行っているかもしれませんが)。

中国は社会主義と民主主義の妥結点を見出そうとして現在も苦悩しています。天安門事件から20年もの年月がたち、中国国内では事件が風化しつつあります。いつの日か天安門事件の全貌が白日の下に曝され、殺害された民衆の願いが叶うことを願うばかりです。

inserted by FC2 system