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盧溝橋事件 ―日中全面戦争のはじまり―

 193777日、日本軍が北京付近の盧溝橋で訓練をしているとき、どこからか発砲を受け、兵士1人が行方不明として、国民党政府軍と戦闘を始めました。この戦闘は現地で停戦協定が結ばれましたが、当時の近衛文麿内閣は中国への派兵を決定し、日中全面戦争が本格的に始まりました。そして、中国戦線での行きづまりからゆくゆくはアジア、太平洋を巻き込む太平洋戦争と敗戦という未来へ向かっていくこととなります。

 1937年当時、北京近郊には日本軍が駐留していました。これは1900年の義和団事件の講和条約で1901年に締結された北京議定書によるものでした。また、1935年ごろから日本の関東軍は華北分離工作として満州の支配を満州帝国の影から強めていました。

 193777日、日本軍は夜間演習をしていました。そこへ、謎の発砲を受け、招集をかけたところ、兵士が1人行方不明であることが分かりました。誰が発砲したかは未だにはっきりしていませんが、国民党軍の誤射であろうという説が有力なようです。また、同日中に行方不明になっていた兵士は帰還しました。翌日には交渉が始まりましたが、その前に、再び発砲があったとして、日本軍と国民党軍は戦闘を開始します。戦闘直後から交渉を探る動きがありましたが、戦闘はさらに翌日まで続きました。その後、現地で国民党側に「責任者の処罰」、「国民党軍の盧溝橋周辺からの撤退」、「抗日団体の取り締まり」を内容とする停戦協定が711日成立しました。

 しかし、日本政府は、武力をちらつかせて中国から謝罪と補償を要求する方針が最終的に決まり、中国への派兵を声明で発表しました。こうして、7月の末には日本軍と中国軍(このころには第二次国共合作により中国国民党と中国共産党が結託していました)の全面戦争がはじまりました。戦闘は当初優位に進み、中国各地を占領しました。193712月には国民党政府の首都である南京を占領しました。そこで、南京大虐殺が起きたと言われています。しかし、中国側は拠点を奥地に移して戦いました。広大な中国を攻略するのはとても困難であり、物資において困窮するようになりました。ここから、日本の南下政策、そして太平洋戦争が始まることとなるのです。

 193777日のほんの些細な衝突と、それを受けての判断が、大日本帝国を自壊の道へと誘うこととなりました。その道を歩む過程で、1千万人以上の人々が犠牲となったのです。田母神俊雄前航空幕僚長の論文によれば、この事件は中国共産党による謀略ということになっていますが、仮に謀略であったとしても、現地で停戦協定が締結されていたにもかかわらず、中国への派兵を決めたのはほかならぬ当時の日本政府です。また、同論文では、国民党の挑発に我慢しきれなくなってやむなく暴支膺懲の声明を出したとしていますが、その原因を作ったのは日本自身です。「条約上」合意があっても、中国国内には不満が募っていたはずです。日本が完全な被害者であるとは言い切れません。そして、田母神俊雄前航空幕僚長の論文の主張を認めるならば、大日本帝国がコミンテルンや中国共産党の謀略にやすやすと乗るような愚かな国家であったということになってしまいます。これこそまさに自虐です。

 中国ではこの日を「国恥の日」として教えているそうです。日本人がどれほどこの日に何が起こったかを知っているでしょうか。日本のアジア侵攻の直接のきっかけとなった、大日本帝国自滅へのきっかけとなったこの日を決して忘れてはなりません。

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