815

終戦記念日 ―日本の潮目―

 1945815日正午、ラジオから君が代斉唱の後、玉音放送が流され、日本国民は日中戦争そして「大東亜戦争」に敗北したことを知りました。これを境に大日本帝国は崩壊へ向かい、連合国の占領時代そしていわゆる「戦後」日本国の時代が始まるのです。右翼民族派はこの日靖国神社や全国の護国神社に参拝したり、啓蒙街宣を行ったりします。特に靖国神社には全国から右翼民族派が訪れて参拝します。一方左翼も靖国神社の存在意義や政治家の靖国神社参拝についてのデモ行進をします。東京の日本武道館では全国戦没者追悼式典が行われ、戦没者の遺族や天皇・皇后両陛下、内閣総理大臣などが出席します。一方で、一部の政治家はこの日靖国神社に参拝します。

 19458月中旬、日本の破綻は間近に迫っていました。主要都市は空襲で壊滅し、沖縄、小笠原諸島、硫黄島などが連合国に占領され、北からはソ連が満州と樺太・千島列島に侵攻してきました。その中で、鈴木貫太郎内閣総理大臣や、阿南惟幾陸軍大臣、米内光政海軍大臣らが、7月に発表されたポツダム宣言を受諾するかどうかが議論されていました。その中で、陸軍内の一部の将校は本土決戦を唱えてポツダム宣言の受諾に反対し、政府と対立しました。しかし、昭和天皇の「聖断」により、814日、日本はポツダム宣言を受諾しました。815日に玉音放送によってポツダム宣言を受諾した旨を伝える玉音放送を流す手はずでした。しかし、その判断は尚も徹底抗戦を主張する勢力の怒りをかい、815日には玉音放送の録音されたレコード盤を一部将校が強奪しようとする事件がありました。そのほかにも、全国で騒乱事件がありました。そのため占領軍が到着するまで緊張した状態が続きました。

 19524月、「全国戦没者追悼式の実施に関する件」が閣議決定され、同年52日、最初の戦没者追悼式典が行われました。1963年から全国戦没者追悼式典は815日に行われることとなり、1982年にこの日に行うことが正式に閣議決定され、現在に至っています。

 玉音放送を聞いた人々には、泣き崩れる人、皇居に向かって土下座して詫びる人、何が起こっているのかほとんど理解できない人、いろいろな人がいたでしょう。そして815日は、日本の戦争の終わり、日本が掲げた「大東亜共栄圏」および大日本帝国の崩壊、そしていわゆる「戦後体制」「占領政策」など、この日を起点としているものが多くあります。靖国神社周辺では参拝者の人だかりの中で、右翼民族派と左翼が運動し、警察がその衝突を食い止めるなど、混沌としたものが渦巻いています(参考)。それが、日本の戦後社会の正体なのかもしれません。そこに渦巻く多様な思想こそが、「戦後体制」そして「戦後民主主義」のもたらした成果なのですから。ある意味でこのままでよいのではないかとも思えます。戦後体制は良くもあり悪くもあるのです。

 1945815日からすでに60年以上が経過し、日本は瓦礫の山から世界の経済大国となりました。しかし、時の流れとともに戦争の記憶もまた、消え去ろうとしています。占領地での政策に見るように、日中戦争・太平洋戦争は決して自衛自存やアジア解放のための戦争であるとは言えません。しかし、枢軸国の行った都市への無差別爆撃を連合国も行ったことや連合国が原爆を広島・長崎に投下したことに表れているように、連合国が完全なる善良な解放者であるとも言えません。日中戦争・太平洋戦争の前後で日本、そして世界が手に入れたもの、失われたものを考えてみた方がいいかもしれません。

 そしてこの現代社会を戦没者たち、そして戦争被害者たちはどう見ているのでしょうか。最後に、今も世界各地に眠っている戦没者、戦争被害者の方々へ、哀悼の意を捧げます。

 これに対する私の主張は歴史問題戦争補償問題靖国神社問題などをご覧ください。それらに対する意見(反論)、感想も掲示板問い合フォームでお待ちしています。

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