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北一輝法要 −国家改造の行方−

1937819日、右翼思想家の北一輝が二・二六事件の首謀者の1人として処刑されました。陸軍皇道派の思想的指導者と目された北一輝の処刑は陸軍からの皇道派の排除をとなりました。右翼民族派はこの日に北一輝の墓がある瀧泉寺で法要を行います。また北一輝の墓と向かい合うように当時右翼思想家として北と双璧を成した大川周明の墓があり、しばしば関連付けて語られます。

北一輝(本名:北輝次郎)は1883年佐渡島で生まれました。18歳で右目を失明し、義眼をはめました。

北は幼少より並はずれた頭脳を持ち、独学で思想を学んで、1905年、『国体論及び純正社会主義』を発表しました。これは河上肇らなど当時の社会主義者の賞賛を受けました。大日本帝国憲法で規定された天皇制を否定したものであったからです。この本は直ちに発禁処分となり、北は国家権力に目をつけられます。

その一方、宮崎滔天らとともに大陸に渡って辛亥革命を支援し、革命に参加した譚人鳳の子を養子に迎えたりもしました。1915年『支那革命外史』を刊行しました。

1921年、『日本改造法案大綱』を刊行し、大きな反響を呼びました。この内容は憲法を3年間停止した後、臨時政府を樹立し、国家社会主義に基づく体制を構築するというものでした。具体的には階級制度廃止、私有財産制限、男女平等といったものです。この本は後に陸軍皇道派のバイブルとなります。

1936年、二・二六事件において指導的役割を果たしたとして逮捕されました。北は手段としてのクーデターを否定していませんでしたが、この決起については何も知りませんでした。翌年814日、北は民間人にもかかわらず軍法会議で死刑判決を言い渡され、5日後に銃殺刑に処せられました。

同時代に右翼思想家として著名であった人物の一人として大川周明がいます。大川周明は1886年山形県に生まれました。東京大学文学部を卒業し、法学博士の学位も受けていました。また1918年に南満州鉄道株式会社(満鉄)に入社し、いくつもの言語に精通していました。

思想家としては1919年に北と猶存社を結成しましたが、後に対立し1924年行地社を結成し、活動しました。また陸軍の橋本欣五郎中佐を中心とする桜会に接近し、1931年の三月事件、十月事件などのクーデター未遂に関与しました。またインドの独立活動家チャンドラ・ボースを匿うなど、インド独立運動の支援なども行いました。

戦後、東京裁判では民間人としてただ一人起訴されましたが、公判において奇行を繰り返したため、精神障害があると判断され免訴となりました。晩年はコーランの翻訳などを行い、1957年に死去しました。

北一輝の思想は必ずしも天皇に心酔したものではなく、むしろ一部では反天皇制の革命家と評されることすらあります。また日蓮宗の熱心な信者でもありました。大川周明の思想も現代の右翼民族派から見るとかなり特異なものに写ります。両名に共通するのは、幅広い教養と大アジア主義、そして手段としての暴力の肯定です。それは偏狭な自民族中心主義と一線を画すものである一方で、国家の統制を推進し、日本の大陸侵略を正当化するものにもなりました。右翼・左翼は必ずしも一面だけで語られるものではありません。案外それぞれ近い部分もあるのです。

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