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広島原爆の日 −過ちは繰り返しませぬから−

 太平洋戦争末期の194586日、アメリカにより歴史史上はじめて核兵器が広島において使用されました。これにより軍都広島は壊滅し、12万人以上が亡くなりました。

 マンハッタン計画により進められていた原爆開発は716日のアラモゴードで行われた核実験により完成を見ます。85日、翌日の天候が良好であることが確認されると「エノラ・ゲイ号」のポール・ティベッツ機長は出撃命令を下しました(ちなみにエノラ・ゲイというのはティベッツの母親の名前だそうです)。86日未明、マリアナ諸島テニアン島からウラン砲身型原始爆弾「リトル・ボーイ」を積んだB29爆撃機「エノラ・ゲイ号」が科学観測機と写真撮影機とともに離陸しました。午前630分、「リトル・ボーイ」の点火プラグがつけられました。ここでエノラ・ゲイ号の乗組員に爆弾が原始爆弾であることを告げられます。午前7時、事前に離陸していた天候観測機が広島上空に達し、空襲警報が出されますが、30分後に解除されます。午前89分、エノラ・ゲイ号は目視で広島市街を確認し(目標の捕捉は目視で行うように命令されていました)、そして午前815分、原子爆弾は投下され広島の島病院上空580メートルで核分裂を起こし爆発しました。爆心地から半径2キロメートル以内の建物はほとんど破壊されました。骨も残さず灰になってしまった人、熱線で皮膚が焼けただれた人、衝撃で眼球が飛び出た人など、広島は酸鼻を極める地獄さながらの地となりました。

 この原爆投下にはニールス・ボーアやアーサー・コンプトン、レオ・シラードなどドイツに対抗するためにと原爆開発に携わった科学者やアイゼンハウアー将軍(のち大統領)など多くの人が反対しました。しかしアメリカ政府はソ連への対抗のために聞き入れませんでした。原爆開発の基礎理論である相対性理論をアルベルト・アインシュタインも日本に原爆が投下されたことに強い衝撃を受けたようです。

 原爆投下が日本人に与えた衝撃は計り知れないものがありました。815日の天皇の玉音放送にもこのことに触れる内容があります。一部の右翼はアメリカに対し謝罪を求めていますが、被爆者団体はそれを全く行わず反核と護憲を主張しています。そのため右翼から左翼の手先として攻撃されることがあります。2005年には右翼団体「誠臣塾」構成員により広島平和都市記念碑の文字(「安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから」の「過ちは」の部分)が削り取られる事件が起きています。犯人が所属する団体は今なお記念碑を自虐史観と対米従属の象徴としその行為を正当化しています。ある意味でねじれ状態です。

 私としてはアメリカに謝罪を求めることは大きな意味を持つことと考えますし、被爆者の平和の思いを酌むこともまた重要であると考えます。アメリカをはじめとする大国が核兵器を大量に保有しその使用を正当化して、一方でほかの国には廃絶を求めるというのは皮肉でしかありませんから。しかし、一部の右翼団体の主張する核武装もまたまったくもって支持しません。それは連合国と枢軸国の無差別爆撃の応酬と同じくらい愚かなことでしょう。

 50年は草一本生えないであろうといわれた広島は、現在緑があふれる人口116万人の大都市となっています。この都市と同じ運命をたどる都市はまた生まれるのでしょうか、また原爆は科学の結実なのでしょうか。その答えはまだ誰にも分かっていません。

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