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柳条湖事件 −満州事変、「十五年戦争」の始まり−

 1931918日、奉天(現在の瀋陽)近郊の南満州鉄道(日本の国策会社)の線路が爆破され、関東軍はこれを当時中国国民党の蒋介石と結んでいた張学良の軍によるものと判断し、張学良軍と戦闘を始めました。もちろんこれは関東軍による謀略でした。満州事変、そして「十五年戦争」の始まりです。当時の若槻礼次郎内閣は不拡大方針を閣議決定しますが、関東軍はこれを無視して戦線を拡大、吉林、黒竜江など華北地方のほとんどを占領しました。

このとき、朝鮮軍司令官の林銑十郎中将は、天皇の大命なしに満州に朝鮮軍を派遣しました。これは明らかに天皇の統帥権を侵すものであり、陸軍の刑法では死刑や無期懲役、7年以上の禁錮が科せられる重罪でした。これにより林銑十郎中将は「越境将軍」の異名をとることになります。もっともこれは、優柔不断な性格の林銑十郎中将が参謀の意見を鵜呑みにしたことが原因だそうですが。

幣原喜重郎外務大臣のもと協調外交を推進していた若槻礼次郎内閣は不拡大方針を無視され事態の収拾に失敗しました。閣内不一致もあり内閣は総辞職しました。続く犬養毅内閣も「満州国」の建国に反対し外交努力による解決を試みましたが五・一五事件により頓挫します。これにより協調外交は終わりを告げます。

中国国民政府は国際連盟に提訴し、19322月、イギリスのリットンを代表とする英米独仏伊の合同調査団が派遣されました。しかし、193231日、占領地に「満洲国」が建国されます。これは国際社会からの非難を逸らそうとして直接占領の代わりとしたものです。その執政(1934年皇帝)として置かれたのが清王朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を起用しました。調査の結果、「満洲国」の建国は住民の自立的意思によるものではなく、日本の軍事行動は自衛の為のものではないと結論付けられました。そして「満州国」承認の撤回や日本軍の撤退、そして日本の権益の承認が内容の勧告案が賛成42、反対1(日本)、棄権1(採決に遅刻したシャム)で可決しました。日本全権松岡洋右はこれを不服として退席し、1933年国際連盟を脱退しました。

19329月日満議定書の締結により日本は「満洲国」を承認しました。1933年塘沽停戦協定により満州事変は停戦しますが、中国との戦争状態は継続されました。その後「満洲国」は関東軍の強い統制下に置かれます。

満州事変には大きな陰謀・思想がありました。満州事変の首謀者は関東軍参謀の石原莞爾中佐、板垣征四郎大佐でした。石原莞爾は著書「世界最終戦論」で世界は最終的に東洋文明の盟主日本と西洋文明の盟主アメリカとの殲滅戦になり、その勝者が世界をまとめるとし、その下準備として満州を占領しなければならないとしました。そして「満洲国人」の下にアジアの民族が団結することを考えていたそうです。結局満州が踏み台になることは変わらないのですが。またこの著書の思想はヨーロッパの戦史研究と日蓮宗の教義解釈から生まれたものです。軍事に宗教を持ち込むことは過去に何度もありましたが、まるでカルト教団の終末思想のようです。

また、満州事変の前、日本は世界恐慌に苦しんでいました。中国のナショナリズムも高まり、日本が1904年に日露戦争で獲得した権益が危ぶまれました。さらに、南満州鉄道に沿って中国側が鉄道を敷設し競争が激化していました。そこで「満州は日本の生命線」「満蒙の危機」を叫び大陸進出を肯定する機運が高まっていました。

こうして、日本は自国の経済危機の解消のために、のちには世界の覇権を握らんとして孤独のまま侵略戦争に突き進むことになりました。

19458月、終戦と共に「満洲国」は解体し、愛新覚羅溥儀も退位します。板垣征四郎は第二次世界大戦後に極東国際軍事裁判で死刑判決が下りました。しかし石原莞爾は東条英機と対立していたこともあって戦犯とされませんでした。戦後石原莞爾は自身の思想を大幅に修正しますが、「世界最終戦論」の思想は戦後の右翼にとどまらず左翼にまで影響を及ぼすことになります。

現在「満洲国」は中国領となっています。かつてロシア、日本などの強国が利権を求めて争った満州の地は一体何を教えているのでしょうか。

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