安保法案について

昨年に続き、戦後日本の平和主義が大きく変わろうとしています。4月、安倍総理大臣はアメリカ下院議会で、集団的自衛権行使に関する法整備を7月までに行うと明言しました。こののち自衛隊法や周辺事態安全確保法など平和安全関連法案11法案(安保法案)が閣議決定され、国会にての審議が始まるのですが、民主党や共産党などの野党はこの法案を「戦争法案」として廃案を要求しました。衆参両院で議論が紛糾し、採決の日程は延期に延期を重ねました。国会以外でも自由と民主主義のための学生緊急行動(SEALDs)をはじめ数多くの団体や個人が国会前や全国各地で抗議活動を行いました。それにもかかわらず政府・自民党は7月に衆議院で、9月に参議院で強行採決されました。これにより日本で本格的に集団的自衛権が運用されます。

集団的自衛権は、端的に言えば「同盟国が攻撃されたとき、相手国に対し武力行使する」権利です。つまり、日本が他国の紛争に軍事介入することができるということです。これを認めるということは日本が全く関係のない他国の紛争に巻き込まれる可能性が今以上に上昇するとともに、自衛隊が外国で武力行使する可能性があると考えられます。日本が他国のために軍事行動をしてくれるのなら多くの国が支持するのも当然です。実際、アメリカ軍は安保法制の成立を見越してか軍事費を予算案から減額しています。他国で武力行使が可能であるばかりでなく、防衛の名のもと先制攻撃を行うことが可能とります。これはどのように解釈しようが日本国憲法に違反するものです。どうしても集団的自衛権を行使したいのであれば憲法改正を正々堂々と行うべきなのです。それもせずに、解釈改憲のみで強引に武力行使を容認するなど日本の立憲主義が崩壊してしまいます。それに、集団的自衛権を認めることなく、戦後70年間、日本は他国に戦争を仕掛けることも、日本国民は誰も戦争で殺すこともありませんでした。他国軍を支援するために戦地に送られた自衛隊員は、傷つき殺されるかもしれませんし、傷つけ、殺すかもしれないのです。その「痛み」を国民は受容できるのでしょうか。賛成派は、その「痛み」を分かち合えるのでしょうか。自衛隊にのみ痛みを押し付けるのであればただの卑怯者です。

冒頭にも書いた通り、この安保法案は多くの国民の反発を集めました。野党の政治家はもちろん、SEALDsのメンバーをはじめとした学生、主婦、学者、アーティストや芸能人など、多くの国民が国会の前や全国各地で反対の声をあげました。多くのマスコミの世論調査でもほぼ必ず安保法案について「説明不足」という声が過半数を占め、反対が賛成を上回りました。

この間、国会審議は主張の急変、同じ説明の繰り返し、論点ずらしなどで空転を重ね、時間ばかりが過ぎていきました。国会答弁で菅喜偉官房長官は安保法案を合憲という憲法学者もたくさんいると発言しました。マスコミのアンケート調査などでは憲法学者たちも大半が違憲の判断を下しております。そのような意見が出たところで、急に数の問題ではない、さらには違憲かどうか最高裁判所が決めることと言い始めました。別の例では、法案を提出した当初、自衛隊がホルムズ海峡沖の機雷掃海任務に就くことができるといっていたにもかかわらず、国会での答弁ではそれができるわけではないと答弁しています。世論調査で説明不足と指摘されると、安倍総理大臣は集団的自衛権の行使を「麻生君と安倍君の喧嘩」や「火事(ネット上で生肉総理という仇名ができたことは記憶に新しいですね)」などにたとえ、それをもって今回の法案が必要であると強弁しました。自主憲法制定論において、右翼民族派がしばしば用いる例えになっていない例え話並みです。戦争は喧嘩のような個人だけで完結するものでも、火事のような災害でもありません。この他にもあげればきりがありません。

このような不誠実で無節操な言説を繰り返す自民党・安倍内閣の押し通そうとする安保法案に正当性はありません。正当性を主張する方は、この法案により中国の脅威に対応することができるか、左翼が反対しているからよいものであると思い込んでいるかのどちらかのように見受けられます。中国による東シナ海の排他的経済水域内でのガス田開発や南沙諸島での空港建設は確かに不穏な動きです。しかし、東シナ海でのガス田開発は10年以上前から確認されていたことで、政府や国民が本当に抜き差しならぬ脅威であると考えているならば、国会の答弁で最初から堂々と公言すればよいだけです。国会での審議に窮していた7月に中国のガス田増備を話題にしている時点で大した脅威ではないと言っているようなものです。少なくとも安倍内閣は政争の具にできる程度の脅威でしかないと考えているのです。南沙諸島の問題にしても中国やベトナム、フィリピンなど6カ国が領有権を主張しているのです。アメリカですら介入を躊躇っている状況で、日本が安易に介入しようものなら、問題をさらに複雑化させかねません。安倍総理大臣は「戦争法案」と呼ぶことを「レッテル貼り」として批判していますが、外国への武力行使はもとより自衛の名のもとの外国への先制攻撃すら可能にする法案を「戦争法案」ということに間違いがあるとは思えません。「戦争法案」と呼ばれることに過敏に反発するのは仙石由人元内閣官房長官が自衛隊を「暴力装置」と呼んだことを批判した方々にも通じます。国家主権を守る、国民を守るなどと威勢の良いことを言っておきながら戦争や武力行使という事態に自らが巻き込まれることをまるで想定していない、それこそ戦後日本社会に甘えきった「平和ボケ」の発想です。戦後、戦争を他人事としてしかとらえることができなくなった日本人の悲劇かもしれません。

安保法案の議論を通じて、日本社会に立憲主義、民主主義といった概念が根付いているか疑問を感じざるを得ないことが明らかとなりました。自民党の武藤貴也衆議院議員は自ら未公開株で金集めをしていながら、SEALDsのデモ隊が「戦争に行きたくない」というのを「利己的」と批判しました。武藤議員のTwitterには「基本的人権の尊重が日本精神を破壊した」などと書かれており、近現代における人権の概念を否定しています。大日本帝国のように国民の権利が国家によって無制限に制限される国家体制が否定され、戦後日本国憲法によって基本的人権の尊重が規定されたのです。武藤議員のような人間を多数抱える自民党が構想する日本国家がおよそ現代の立憲国家とはほど遠いものであることは間違いありません。今回の安保法案をめぐる混乱は、権力と国民の無関心に胡坐をかいた自民党の思想的腐敗を浮き彫りにしただけではなく、草莽にあふれる反対の声を無視する安倍内閣および自民党に不信感を多くの国民に抱かせることとなりました。安保法制が国会で成立した今、日本の立憲主義と民主主義、そして平和主義を守るために国民主権の意味を国民はきちんと考えなければなりません。

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