歴史問題

 日本は1931918日、関東軍の謀略である柳条湖事件から満州事変を起こし、満州に満洲国という傀儡国家を造りました。日本は柳条湖事件は奉天派軍閥の攻撃であり日本の軍事行動は自衛のためであると主張しましたが、中国国民政府は国際連盟に調査を依頼し、イギリスのリットンを代表とする英米独仏伊の合同調査団が派遣されました。その結果、満洲国の建国は住民の自立的意思によるものではなく、日本の軍事行動は自衛の為のものではないと結論付けられました。そして満洲国承認の撤回や日本軍の撤退、日本の満州における権益の承認が内容の勧告案が賛成42、反対1(日本)、棄権1(採決に遅刻したシャム)で可決しました。日本全権松岡洋右はこれを不服として退席し、国際連盟を脱退しました。そして満州国の開発を進めました。その時日本国民は何をしたでしょうか。あまりに堂々と退席したため帰国した松岡洋右を拍手喝采で出迎えました。メディアも松岡を讃えました。その中でそれは日本があらゆる分野で世界から孤立する道であるということを理解していた人はいたでしょうか。考えてみればただの日本のわがままです。利権が欲しいから満州を奪い取り、それが他国に認められないから国際連盟を辞めるということです。何も知らない国民はただ堂々とした(厚顔無恥と言ったほうが正しいかもしれません)松岡洋右の姿を迎合するのみです。そして五・一五事件で政党政治はなくなり、日本は自閉し、論理より感情、客観より主観が優先され、天皇への滅私奉公こそが理想とされました。それに伴い学問も統制されました。

 二・二六事件は前述の様相の最たるものでした。反乱に加わった将校や兵士たちは自分たちの行為は絶対的正義であり、天皇もわかってくれると信じて疑いませんでした。しかし、国賊扱いするビラが降ってきて彼らは動揺します。俺たちは中心であるのに、どうして逆賊扱いなのか?そう思ったはずです。彼らが「君側の奸(逆賊の意)」と思っていたものが天皇にとっては「股肱の臣(体の一部の様な忠臣)」であり、殺して天皇が激怒することなどまるで考えていなかったのです。ある青年将校は獄中での日記の中でまだ天皇はわかってくれないのかという感情から「お恨み申し上げます」と吐露しています。これで憂国の志士と言えるでしょうか。管理人としては自己陶酔にどっぷりとつかった夢想家に見えます。

 193777日、盧溝橋付近で演習中であった日本軍が謎の発砲を受け、兵士1人不明として(一説にトイレに行っていたそうです)中国軍と戦闘になる盧溝橋事件が起きました。4日後に現地で停戦協定が結ばれたにもかかわらず当時の近衛文麿内閣は何故か華北地方へ派兵して戦線を拡大します。1か月後とって付けたように暴支膺懲の声明を出します。調子に乗りやがって懲らしめてやるということです。そういうわけで日本軍は何も考えることなく、中国の人々への侮蔑心と恐怖心に駆り立てられて、中国の奥地へ進んで行きました。その過程で日本軍は略奪、暴行、捕虜や民間人の虐殺を行いました。その最たるものが南京大虐殺です。それについては別項で述べます。翌年1月近衛文麿内閣は戦争の目的は東亜新秩序の形成であると声明を出します。よく15年戦争の目的はアジアの解放であるという人が今でもいますが、それならばどうしてこの声明を派兵時に声明しなかったのでしょうか。思うにそれは目的ではないか、体面上の目的であるのです。日本は更に戦争体制に突き進んでいきます。朝鮮の人々への創氏改名も行われました。創氏は強制だったが改名は任意であったそうです。また日本人から差別されないための措置であったという人もいます。差別されなければよいのでしょうか。文化を奪い取る行為であることには変わりがありません。

 しかし、中国側は19379月第二次国共合作により国民党と共産党が手を結び抗日民族統一戦線を結成し、拠点を奥地へ移して援蔣ルートでの各国の支援もあって頑強に抵抗を続けました。アメリカ、イギリス、中国、オランダによるABCD包囲網によって資源調達も苦しくなりました。そこで日本は第二次近衛文麿内閣の時の19409月、まず援蔣ルートを断とうとフランス領インドシナを占領しました。フランスはすでにナチスドイツに占領されナチスの傀儡政権であるヴィシー政府が支配していました。それでも1941年日ソ中立条約を結び、野村吉三郎駐米大使、来栖三郎特命全権大使とハル国務長官の日米交渉が始まりました。しかし、アメリカは日本軍の中国からの撤退を要求し、日本側が同意に難色を示し、交渉は暗礁に乗り上げました。首相が近衛文麿から東条英機に変わり、日米交渉は再開されましたが、ハルはハル・ノートにおいて、1940年に結ばれた日独伊三国同盟の破棄や中国の占領地に立てた傀儡政権の否認、中国からの全面撤退を要求しました。日本は交渉が失敗したと見なしました。そして1941128日、陸軍がイギリス領マレー半島に上陸すると共に海軍がハワイ・オアフ島のアメリカ海軍基地を攻撃し、太平洋戦争(当時は大東亜戦争)が始まりました。このとき、以下のような会話が昭和天皇とある将校の間で交わされたという内容の文を私は昔読んだことがあります。

 昭和天皇は作戦を奉答した将校に「日米戦線はいつごろ片がつくか」と訊きました。その将校は「3カ月ぐらいだと思われます。」と答えました。すると昭和天皇は「おまえは日華事変(日中戦争)のときに4カ月で片がつくと言ったのに、4年たってもかたがつかないではないか。」と言いました。その将校は黙り込んでしまったそうです。

 今考えればそれは昭和天皇が戦争に関してかなりシビアな視点を持っていたということ、日本軍の中枢が日中戦争も太平洋戦争も短期間で終わるとしか考えていなかったということかもしれません。

 また、このとき日米両政府の様子はどうだったでしょうか。アメリカとしては、全てがうまくいったようです。当時アメリカはヨーロッパ戦線にどのように参戦しようか悩んでいました。しかもこのころには日本の外務省筋や領事館の間の暗号通信はすべて解読されており、アメリカ政府としてはすでに日本の日米交渉打ち切りの通知が来ることを知っていました。そこへ日本軍の真珠湾攻撃の報が入ります。アメリカは対日参戦を名目に連合国側に参戦することができるわけです。さらに開戦通知が真珠湾攻撃の後になって届いたため、真珠湾攻撃は奇襲攻撃と言うレッテルを貼られることになります。これによりアメリカ国民を”Remember Pearl Harbor!!”(真珠湾を覚えていろ!!)の合言葉のもとに団結させることに成功しました。これは大使館の一等書記官が仲間の送別会で出勤が遅れた上に、その書記官がタイプライターをうまく使えなかった(外務省からこの文書は重要だから一等書記官自らがタイプを打つようにという指示があった)ことが原因だそうです。そして野村吉三郎、来栖三郎両大使がハル国務長官のもとへ文章を持っていたのが真珠湾攻撃後になったということです。ハル国務長官がこの間に考えた台詞は「私はこれまでの外交官生活の中で、これほどまでの恥知らずの行為に出会ったことはない。」というものでした。真珠湾攻撃は奇襲攻撃ではなるはずはなかったのに、成り行きで(半ば意図的に)奇襲攻撃となってしまったわけです。

 一方日本は、この攻撃の成功に沸いていました。なかにはホワイトハウスに日の丸が立つ日などと言う人もいました。当時の東条英機首相も真珠湾攻撃成功の晩、政治、軍事の指導者を呼び、「これでルーズヴェルトは失脚するに違いない。アメリカ人の士気も落ちる一方だろう。」と語っています。日本人はアメリカをどこまでも個人主義の国としか考えていませんでした。そのためにアメリカ人が団結する姿など考えてもいなかったのでしょう。どこまでも相手を侮ったことが太平洋戦争における日本の敗北の原因の一つではないでしょうか。

 ところで、この太平洋戦争の終わりとは一体何だったのでしょうか。もちろん日本が勝つかアメリカが勝つかに収束されるのですが、アメリカの勝ちは日本を倒すことであるとして、日本が勝つことはアメリカを倒すことではないはずです。中国ですら占領がうまくできないのですから、日本の国力ではアメリカに兵を送って戦うことはできません。日本が勝つことは一体どのようなことだったのでしょうか。実のところ、軍部はそのことをほとんど考えていなかったようです。戦争の終結案にあたる草案は軍部が作成しています。そこにはアジアを占領しして日本軍の基地とし、蒋介石を降伏させ、日独伊三国連携してイギリスを圧倒し、アメリカの戦意をそぐという内容でした。ここで言えることは2つあります。ひとつはアジアを日本の基地とすること、つまりアジアを利するのではなく、日本だけを利することが目的であるということです。もう1つは、日本はアメリカの戦意がなくならない限り戦い続けるしかなく、日本側に決定打はないということです。実際この戦争は百年戦争だと言った軍人もいました。しかも、この終結案は陸軍省軍務局高級課員の石井秋穂と海軍省軍務局高級課員の藤井茂が多数の開戦時の名目骨子案の1つとして短期間で作成したものであり、さまざまな不確定要素があったにもかかわらず大本営政府連絡会議においてほとんど何の修正もなく承認されました。「自衛戦争」「解放戦争」の終結案としてはあまりにもお粗末です。これらの事項を見ると、日本軍が何の計算もなくこの戦争を始めたと言えるのではないでしょうか。

 日本軍は占領した各地に「独立」政権を建て統治にあたらせました。中国の汪兆銘政権、インドの自由インド仮政府などの他に、ビルマ、フィリピンなど各地に政権を建てました。インドのチャンドラ・ボース、ビルマのアウンサン将軍(アウンサンスーチーの父)、インドネシアのスカルノなど日本軍に協力した人もいます(もちろん都合よく利用するためです。利用できれば何でもよいわけです)。しかし、このように作られたのですから当然日本の意向には逆らえないわけです。アジア解放のためならばどうして占領地で日本語を教える必要があったのでしょうか。どうして日本の歴史を教え日の丸を掲げさせたのでしょうか。朝鮮半島でも行ったこれらのことがどうして独立のためになったのでしょうか。

 はじめは勝ち続けた日本でしたが、山本五十六海軍大将が「1年間は暴れてみせる」といったように、1942年のミッドウェー海戦のときに空母5隻を失い、その後日本は配色を濃くしていきます。しかし大本営はそれをひた隠しにし、メディアにはあたかも日本軍が勝ち進んでいるように報じさせました。真実の報道や、放送倫理などはどうでもよく政府はメディアを戦意高揚のための道具としか考えていなかったようです。ドイツやイタリア以外に有力な国と協力関係を持とうとはしませんでした。自国の情勢を積極的に海外に報道し、国際社会(特に欧米諸国)の理解を得ていた蔣介石とは対照的です。

 19432月、日本軍はアメリカ軍により大損害を被りガダルカナル島から撤退します。これは「転進」と呼ばれました。5月にはアッツ島の日本軍守備隊が全滅しました。ここではじめて「玉砕」という言葉が使われました。7月にはイタリアでムッソリーニ首相が失脚し連合軍に無条件降伏します。このころから次第に敗色が濃厚になっていきます。11月に日本は大東亜会議を開催し、共存共栄、独立尊重、互恵連携、文化の高揚などを旨とする大東亜共同宣言を採択しました。しかしこの会議は殆ど東条英機の独り舞台でした。このころには東条英機は内閣総理大臣の他に陸軍大臣や外務大臣、軍の参謀総長など多くのポストを兼任し、独裁体制として批判を浴びるようになりました。

 19447月、サイパン島が陥落し、その責任を取る形で東条英機内閣は総辞職し、小磯国昭内閣が成立しました。同時期にはインドでインパール作戦が失敗し、ビルマがイギリス側につくなど、アジアの人々は日本から離れていきました。この後、かの自爆攻撃隊「神風特別攻撃隊」、「回天」による攻撃が行われるようになりました。常識から考えれば自殺としか考えられないような攻撃ができたのは、論理より感情、客観より主観が優先され、天皇ひいては国への滅私奉公こそが理想とされた教育の賜物と一部覚醒剤のおかげでしょう。国を憂いて飛び立ったと言う人がいますが、その心を察することはできません。当初アメリカ軍は「カミカゼ」を恐れました。実被害もさることながら、自国では考えられない攻撃のためでしょう。英和辞書を引けば、kamikazeという単語が載っています。その意味は神風特攻隊と、命知らずの無鉄砲です。このことがますます日本人をアメリカ人にとって理解しがたい民族のように思わせました。しかし、しだいにアメリカは対策を講じるようになり、戦闘機から練習機まで根こそぎ動員した特攻攻撃はあまり効果がなくなっていきます。またこのころにアメリカ軍のB29による日本の都市への爆撃が始まります。かつて枢軸国がしたような無差別爆撃も数多く行われました。

 1945年になると双方ともに勝敗の行方が分かってきたようです。2月にはアメリカのローズヴェルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンによってヤルタ会談が持たれ、ドイツへの総攻撃と戦後処理、そしてアメリカとソ連間の密約としてソ連の対日参戦が話し合われました。当初参戦の理由がなく国民が納得しないとしていたソ連ですが、アメリカは日本降伏の決め手としてソ連の参戦が重要であると考えていました。そして要求はすべて飲むと言う条件を出したローズヴェルトに対して、スターリンは1904年の日露戦争で奪われた北方領土の割譲を要求しました。ローズヴェルトは即座に了承しました。

 一方日本側も和平の道を模索していました。3月には硫黄島が陥落し、4月には沖縄本島での戦闘が始まりました。中国では蔣介石政府との和平交渉をしていましたが、失敗して4月に小磯国昭内閣は総辞職しました。代わって成立した鈴木貫太郎内閣も和平交渉の道を模索しました。このころ和平交渉の仲介役としてソ連を頼りにするようになりました。しかし、ヤルタ会談を経たソ連は回答を先延ばしするだけでした。

そうするうちに、57日に最後の盟友ドイツが降伏しました。沖縄はアメリカ軍に占領され、623日に日本軍の組織的抵抗は終結しました。このとき、民間人による集団自決が軍の強制であったかどうかが議論されています。捕虜になるより自決しろ、アメリカ軍に捕まればこの上ない辱めを受けると喧伝し、集団自決に追い込んだのは当時の価値観であり、その価値観を刷り込んだのは教育である以上、政府そして軍の関与は否めません。日本人の価値観とは言えひとりでに発生するものではないからです。

 7月、イギリスのアトリー、ソ連のスターリン、アメリカのトルーマンによりポツダム会談が行われます。アメリカは716日に史上初の原子爆弾を完成させ、このころにはソ連の参戦を必ずしも必要とは考えていませんでした。むしろそれを警戒していました。730日アメリカ、ソ連、中華民国の名でポツダム宣言を発表しました。しかし、天皇を中心とする国体護持のために鈴木首相はこれを黙殺つまり拒否しました。その後86日に広島に、89日に長崎に原子爆弾が投下され、20万人が死亡しました。88日にはソ連がヤルタ会談の内容どおり日本に宣戦布告し、89日には「満州国」と樺太、千島列島に侵攻し、93日までに歯舞諸島まで占領しました。実はスターリンには北海道も占領することを考えていたようですが、アメリカやイギリスの抗議を受け断念しています。ここに北方領土問題が始まりました。また、捕虜となった日本軍兵士などがシベリアに連行されたのち強制労働させられ6万人以上が死亡した「シベリア抑留」の問題もこの時起きています。

 812日、日本政府は軍部の強硬派の反対意見を押し切ってポツダム宣言を受諾しました。そして1945815日正午、終戦の詔を朗読した天皇の肉声を録音したものが全国に放送され、国民は敗戦を知りました。いわゆる玉音放送です。ここに、太平洋戦争、そして第二次世界大戦は、全世界に様々な問題を残して終結しました。

 また、終戦後、アジア各地の日本人に帰国(復員)命令が下りました。その混乱の中で中国残留孤児の問題などが起こりました。ところが、アジア解放のために来たのだからこのままでは義理が立たないと考える人がいました。そこで復員命令を無視して元の植民地経営を取り戻そうとしたヨーロッパ諸国と戦った人が3000人ほどいます。法的に考えれば彼らは英霊でもなんでもありません。むしろ国の命令に背いた逆賊です。そのため彼らは靖国神社にまつられる存在ではありません。

 1946年から太平洋戦争そして軍国主義の責任を追及する極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷しました。この裁判には1948年に結審し東条英機、広田弘毅、土肥原賢二、板垣征四郎、松井石根、木村兵太郎、武藤章ら7人が死刑、小磯国昭、賀屋興宜、平沼騏一郎、星野直樹、嶋田繁太郎、畑俊六、南次郎、鈴木貞一、白鳥敏夫、岡敬純、荒木貞夫、木戸幸一、橋本欣五郎、大島浩、梅津美治郎、佐藤賢了の16人が終身禁固、東郷茂徳は禁固20年、重光葵は禁固7年、永野修身と松岡洋右は途中で病死、大川周明は精神障害で免訴となりました。天皇の責任は、占領統治のために残しておいた方がよいというのが基本方針であったため、裁かれませんでした。そのため大本営の責任者が重罰を受けない不完全な部分もあったようです。連合国側の戦争犯罪は裁かないなど、裁判の正当性を疑いたくなりますが、まだ軽い方であったと思います。ここではドイツのニュルンベルグ裁判でナチスの首脳たちが見せたような自らの行為の正当性する主張をした記録はありません。当時の日本の指導者たちがいかに未熟であったかが読み取れるのではないかと思います。同時に捕虜虐待行為として報道されたバターン死の行進を結果的に命令した本間正晴など5700人がB,C級戦犯として起訴され、うち984人に死刑判決が下り本間正晴を含む920人が処刑されました。その中には日本人として動員された朝鮮人23人、台湾人26人が含まれていました。

 ここまで見ると、日本は1931年から武力で手にした権益をがめつく守ろうとして孤立していき、他のファシズム諸国と手を結び、未熟な技術で無謀な戦争を挑み、ついに大日本帝国そのものを崩壊に追いやっていったことがわかります。ここまで来て思うのは、英霊とは誰であろう、ということです。ある意味で「英霊」は日本の基礎を築いたと言えます。大日本帝国を崩壊に追いやり現代日本の基礎を作ったという意味において。

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