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教育勅語発布 ―道徳は誰のために―

 18901030日、明治天皇から教育に関する勅語(教育勅語)が発布されました。それ以来1948年までこれは大日本帝国における道徳の基本となりました。右翼民族派の多くは教育勅語を道徳の中心として学校教育で復活させるよう主張しています。

 明治維新以来日本社会に急速に西洋の概念が浸透し、その中で教育制度の近代化も進んでいきました。一方で、様々な価値観が社会に発生し、自由民権運動が全国に巻き起こました。そうした中で自由民権運動のような動きを教育で抑圧する意図も込めて教育勅語は山縣有朋内閣の下で起草され、明治天皇が下した言葉(勅語)として発布されました。教育勅語は大日本帝国の教育の再考原理として学校行事で校長によって奉読され、謄本は神聖なものとして扱われました。そうして第二次世界大戦まで国民は皇室への忠誠の考えを刷り込まれていきました。しかし第二次世界大戦後GHQの占領下で国民主権を原則とする日本国憲法と教育基本法が制定されると、教育勅語はその精神に反するものとして1948年衆議院で教育勅語等の排除に関する決議、参議院で教育勅語等の失効確認に関する決議がなされたことで教育現場から排除されることとなりました。

 教育勅語の原文は以下です。

 

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテヘ育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シコ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

 

明治二十三年十月三十日

御名御璽

 

この教育勅語は、「朕惟フニ」から始まり、終始天皇・皇室とそれに仕える臣下(臣民)という関係で書かれています。「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シコ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ」といった一見現代でも通じるように見える徳目はすべて「皇運ヲ扶翼スベシ」つまり皇室を助けるためにあるのです。日本国家と皇室がほぼ一体と捉えている右翼民族派ならいざ知らず、国会での決議に触れられている通り、象徴天皇制と国民主権が原則の現代日本では適切ではありません。ここに見られている現代語訳のように、何の説明もなく臣民を国民、皇運を国家と訳し、そのうえで徳目の部分だけを都合よく取り上げて教育勅語を素晴らしいものと喧伝するのはむしろ教育勅語を歪曲する行為ではありませんか。君が代のように時代に合わせて解釈を変えているのだとしたら、その背景はきちんと議論されるべきです。そもそも教育勅語が学校教育から失われたから社会が混乱しているかのような言説は人間も社会も軽く見ていると感じます。おおよそ教育勅語ありきのプロパガンダでしょう。

教育勅語を個人の信条として生きるならそれは尊重されるべきですし、個人的に教育勅語がいかに素晴らしいものであるかを他の人に伝えるのもまた自由です。しかしその理解はきちんと原文をきちんと読み解いたものであるべきですし、同時に教育勅語は数ある規範の中の一つにすぎないことも理解しておくべきです。公教育で取り上げるとすれば背景や言葉の意味をきちんと説明したうえで、何を規範として生きていくかをきちんと考える教育をするべきでしょう。

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