527

旧海軍記念日 ―皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ―

 1905527日、日露戦争のさなか、日本の連合艦隊とロシアの第二太平洋艦隊(いわゆる「バルチック艦隊」)が日本海において対戦しました。いわゆる日本海海戦です。日本はこの戦いでロシアに大勝し、大日本帝国の名は世界に知れ渡ることになります。その後この日は海軍記念日とされ、祝日とされましたが、第二次世界大戦後に廃止されます(ちなみに310日が旧陸軍記念日ですが、これは日露戦争においてロシア軍の拠点である旅順を陥落させた日です。これも第二次世界大戦後に廃止されます)。

 フランス、ドイツと同盟を結んでいた当時のロシアは南下政策を取り、満州で権益を持っていました。一方、ロシアの南下政策を脅威とみなしたイギリスは1902年日英同盟を結び、中国の市場開放を主張していたアメリカも日本を支持しました。満州の権益と朝鮮の支配権をめぐって対立していた日本とロシアは1904年から日露戦争をしていました。そして旅順や奉天などで日本は多くの犠牲を払いながら戦闘に勝利していきました(日露戦争の陸戦の主な戦場は基本的に満州です)。その中で、ロシアは、バルト海に展開している既存の艦隊を終結させれば制海権を得て日本に対抗できると考えました(日本で第二太平洋艦隊が「バルチック艦隊」と呼ばれるようになった所以です)。そこでバルト海から北海、大西洋、インド洋、南シナ海、東シナ海を経由して既存の艦隊から結集した第二太平洋艦隊が対馬海峡に侵入しました。

そして、このことを予測していた日本の連合艦隊が527日、灯火管制を守らなかった一隻を発見します。その後集結した連合艦隊は第二太平洋艦隊に対して火力に劣るため、自らの大砲の射程距離を保つことで有利に戦いを進めようとしました。初め平行にすれ違うように進んでいた連合艦隊と第二太平洋艦隊でしたが、連合艦隊は急激に左旋回します。いわゆる「丁字戦法」や「東郷ターン」と呼ばれるものです。これにより長旅で疲弊し、士気も低下していた第二太平洋艦隊は進路を遮断され、次々と敗走・撃沈していきました。この海戦に大敗したロシアは日本との和平交渉を受諾しました。

1905年講和条約であるポーツマス条約がアメリカの斡旋により締結されました。それによりロシアは日本に南樺太を割譲し、朝鮮半島に対する日本の優越を認め、ロシアが租借していた旅順、大連、そして長春以南の鉄道、沿海州及びカムチャッカ半島沖での漁業権を譲渡しました。長春以南の鉄道は1906年南満州鉄道となります。しかし、賠償金は一切支払われなかったため、増税によって困窮していた国民の間で不満が募りました。そして講和反対国民集会において日比谷焼打ち事件などの暴動がおこりました。

ヨーロッパの大国ロシアに勝利したアジアの小国日本はヨーロッパ列強に支配されていた植民地に一時的に希望を与えました。連合艦隊の司令官であった東郷平八郎海軍大将は名将としてその名が世界に知れ渡りました。しかし、日本はこのあと日韓協約などによって朝鮮半島を属領にしていくことになり、名実ともに「列強」の一員となるのです。

この海戦の後に527日は海軍記念日とされ、祝日とされました。しかし、第二次世界大戦後に廃止されることとなります。海軍記念日が廃止された現在でも海上自衛隊などで記念行事が行われています。また、日本海海戦で活躍した戦艦三笠は現在も横須賀に係留されています(一度佐世保で爆発事故を起こして沈没しますが引き上げられました)。余談ですが、戦艦三笠は海軍が予算を不正に流用して購入したものです。

このページの副題は、東郷平八郎司令官が戦艦三笠に掲げさせたZ旗に割り当てられた言葉「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」から取ったものです。Z旗とは、

(某右翼民族派団体の街宣車に掲げられていたもの)

このように黒、黄、赤、青の三角形が組み合わさった旗です。Z旗はこの後日本軍では重要な作戦で掲げられることになります(Zはアルファベットの最後の文字であるから「もう後がない」という意味で使われるそうです)。この旗は日本最大の右翼民族派団体の連合体「全日本愛国者団体会議(全愛会議)」の旗としても使われています。

 陸軍記念日・海軍記念日が廃止されたのはその意味を考えた上での判断であったのでしょう。軍を持っていない(ことになっている)日本が軍にまつわる祝日を持っていることは不可解ですから。死後一部の人間によって「軍神」として謳われることになった東郷平八郎海軍大将(本人としてはそのようなことをされたくなかったそうです)は自身の死後の日本をどう見ていき、現代の日本どう見ているのでしょうか。

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