この日の演説・シュプレヒコール

「・・・我々は、多くの尊い命を、一瞬にして奪った、灼熱の86日、この悲しい日を、決して忘れることはできません。世界中の多くの人が、核兵器のない世界にと声をあげ、訴え続けてきましたが、ハーグ判決でもわかるように、核保有国、大戦戦勝国の思いのまま決議され、戦争責任についても、極東国際軍事裁判で、勝者が一方的に、意のままに決着させ、米国の、原爆投下責任については、一切不問のままであります。広島・長崎における、非戦闘員無差別大量殺人を行った米国の残虐な行為は、決して許されるものではありません。米国は、原爆投下について非を認め、日本、そして世界に改めて謝罪すべきであります。謝罪といえば、平和記念公園内にある、原爆犠牲者慰霊碑の“過ちは繰り返しませぬから”という碑文は、まるで、原爆犠牲者や、広島市民が、過ちを犯し、謝罪しているように読み取れます。広島市は、碑文の主語は、一個人、一国を表すものではなく、世界人類であるという見解を示しています。ならば、この碑を国連本部や、その機関に建立し、主語が世界人類であることを明確にすべきであります。本来、“過ちは繰り返しませぬから”という碑文は、核保有大国で、人類史上初めて、原爆を投下した、米国が誓う言葉であり、米国が誓うことによって、初めて、核拡散防止の先頭に立って呼びかける大義名分があるのではないでしょうか。・・・」

「・・・86日、広島、同年89日、長崎における、原子雲の下で繰り広げられた、地獄絵は決してかき消すことはできません。人類史上初めて、原子爆弾を投下し、非戦闘員に対する無差別大量殺人を行った米国、その米国・オバマ大統領は昨年、プラハ演説の中で唯一、原爆を使用した国として道義的責任を認めたことは評価できるが、原爆投下の謝罪を行わず、また、米国人の多くは戦争を終結させた、原爆投下を意義深い行為であったとか、英雄的行為であったなどと、無差別大量殺人を正当化しています。日本国内においても、歪められた歴史観から、日本が悪かったから原爆が投下されたとか、日本人が反省をしなければならないという、米国の無差別大量殺人を肯定するような、著しく間違った認識を持った一部の国民がおります。我々は、原爆の被害を戦争と相殺されるものではなく、米国の原爆投下を明らかな戦争犯罪行為として今後、追求し、糾弾していくために、・・・平和運動を再構築しなければならないと考えています。今年も、多くの尊い命を一瞬にして失った、86日を迎えるにあたり、私たちが享受している平和と繁栄の社会が、この尊い命の犠牲の上に存在することを、再認識するとともに、原爆で亡くなられた、原爆で亡くなられた犠牲者に対し、哀悼の意をささげ、86日を祈りの日として、後世に語り継がなければなりません。我々は、広島から世界に向け、恒久平和を訴えるため、平和運動に取り組んでおります、民族派団体の街頭遊説隊であります。」

「・・・大東亜戦争は、敗戦という、悲しい結末を迎えましたが、その勇気や民族精神が魂に燃え移り、アジア民族独立を達成したのであります。その誇り高き民族が、今日では、テロ国家、北朝鮮の核兵器や、弾道ミサイルの脅威に怯え、日本は・・・アメリカの核の傘の下で、核兵器廃絶を訴える、滑稽な姿を世界に晒しております。我が国は独立国家であり、アメリカの領土の一部・州ではありませんから、社会主義者や、共産主義者のように、アメリカの核の傘の下で核兵器廃絶を訴えても、所詮はまやかしに過ぎません。広島市民の皆さん、アメリカの核の傘の下で、核兵器廃絶を訴えるような、歪んだ平和運動に、終止符を打とうではありませんか。広島市民の皆さん、目には目、歯には歯というように、核には核という基本姿勢が必要な時もあるのではないでしょうか。19985月、南アジアの火薬庫といわれている、インドとパキスタンが、・・・核実験を行いました。インドとパキスタンは、・・・独立以来、3次にわたって全面戦争を繰り広げておりましたが、1998年の、両国の核実験以来、全面戦争はないと聞いております。・・・核抑止力の正当性と、核武装の必要性を議論することにより、真の平和運動に、取り組まなければなりません。核兵器保有国のアメリカのオバマ大統領が、核兵器廃絶を表明しても、ロシアや中国の核兵器は、どうなりますか。アフガニスタンや、イラクに駐留する、自衛隊はどうしますか。・・・テロ国家、北朝鮮のような無法国家が、我が国のすぐ側に存在する限り、我が国としても、核武装することにより、我が国の平和を守らなければなりません。核兵器廃絶など、現実から遠くかけ離れた、机上の空論ではないでしょうか。・・・秋葉広島市長が、平和宣言を行います。秋葉広島市長が平和主義者のように思えますが、広島県民の皆さん、騙されてはいけません。秋葉広島市長は、拉致被害者を見殺しにした、社会党の一員で、・・・市長就任後も、北朝鮮に支援物資を送った、国賊であることを忘れてはなりません。・・・私たちは核兵器廃絶を人類不滅の願いと信じながらも、核抑止力の正当性と、核武装の必要性を訴えております、86原爆犠牲者慰霊追悼行進の、街頭遊説隊であります。」

いかがでしたか。そして、どう思いましたか。

「世界中の多くの人が、核兵器のない世界にと声をあげ、訴え続けてきましたが、ハーグ判決でもわかるように、核保有国、大戦戦勝国の思いのまま決議され、戦争責任についても、極東国際軍事裁判で、勝者が一方的に、意のままに決着させ、米国の、原爆投下責任については、一切不問のままであります。広島・長崎における、非戦闘員無差別大量殺人を行った米国の残虐な行為は、決して許されるものではありません。米国は、原爆投下について非を認め、日本、そして世界に改めて謝罪すべきであります。」ここで、ハーグ判決とは2000年に行われた女性国際戦犯法廷における最終判決を指しているものと思われます。これは日本軍の従軍慰安婦制度について、日本政府の法的責任を明確にし、謝罪と賠償を求めるものです。これは日本の女性団体などが主催となって行ったもので、裁判と標榜していますが実際はその形式をとっていないようです(まず被告人(その中には昭和天皇も含まれています)が全員死亡しており、そしてその弁護人が存在しません)。このような「法廷」には法的拘束力はありません。核保有国や大戦戦勝国が関係する余地があろうとも、政治集会での決議以上の意味を持たないのではないでしょうか。この「法廷」の重みは東京裁判よりはるかに軽いものです。私は東京裁判が完全に公正な裁判であったとは思いませんが、日本の戦争犯罪を裁くという行為自体は意義深いものであると認識しています。本来ならば東京裁判に日本人自身が参加して戦争犯罪を裁くべきであったでしょうし、原爆投下という戦争犯罪もアメリカ人自身が参加した東京裁判のような法廷で裁かれるべきでしょう。

「謝罪といえば、平和記念公園内にある、原爆犠牲者慰霊碑の“過ちは繰り返しませぬから”という碑文は、まるで、原爆犠牲者や、広島市民が、過ちを犯し、謝罪しているように読み取れます。広島市は、碑文の主語は、一個人、一国を表すものではなく、世界人類であるという見解を示しています。」私はこれを初めて聞いたとき、不図考えさせられました。私たちはこの碑文を読むとき、無意識に被爆者や広島市民を過ちを犯した主体から外していたのではないのかと。現在の日本では恐らくそれで正解なのでしょう。原爆犠牲者碑文は今のままで良いのではないでしょうか。過ちを犯さない主体は世界人類で、広島や長崎の悲劇を二度と繰り返さないという意味で良いでしょう。仮に日本が核武装することとなったとしても、広島や長崎における人々の痛みを忘れないために必要です。もしこの碑文を改正して、碑文の中にアメリカへの怨念しか残らなくなってしまえば、原爆投下を歴史上初めて受けた日本の核廃絶に向けた役割はどうなってしまうのでしょうか。恐らく日本の役割は縮小してしまうでしょう。

「ならば、この碑を国連本部や、その機関に建立し、主語が世界人類であることを明確にすべきであります。」それは大いに賛成です。主語を世界人類と明記したうえで、全ての国連機関の本部に建立すれば、世界に原爆慰霊碑の心が伝わるでしょう。是非そうしたいものです。

「人類史上初めて、原子爆弾を投下し、非戦闘員に対する無差別大量殺人を行った米国、その米国・オバマ大統領は昨年、プラハ演説の中で唯一、原爆を使用した国として道義的責任を認めたことは評価できるが、原爆投下の謝罪を行わず、また、米国人の多くは戦争を終結させた、原爆投下を意義深い行為であったとか、英雄的行為であったなどと、無差別大量殺人を正当化しています。」オバマ大統領が原爆投下の責任を認め、核廃絶を目指す決意をプラハ演説で述べたことは評価しますが、それを成し遂げられるかどうかを見極める必要があります。当然、アメリカの原爆投下は民間人の大量虐殺であり、許されるものではありません。未だ6割のアメリカ人が原爆投下を戦争終結のため必要であったなどと考えているのは遺憾です。アメリカは原爆投下を謝罪すべきです。オバマ大統領にはぜひ広島そして長崎を訪れて被爆者の方々に謝罪していただきたいものです。しかし、それとともに日本も戦争責任を完全に清算しきることも必要となります。アメリカも日本も犯した戦争犯罪を清算できないでいる点は同じです。

「日本国内においても、歪められた歴史観から、日本が悪かったから原爆が投下されたとか、日本人が反省をしなければならないという、米国の無差別大量殺人を肯定するような、著しく間違った認識を持った一部の国民がおります。」3年前の久間章防衛大臣(当時)の「原爆投下は戦争終結のためにはしょうがなかった」という発言が記憶に新しい方も多々おられるでしょう。日本が侵略戦争を行ったから原爆が投下されて当然であるということにはなりませんが、日本人が「東亜解放の精神」に反した侵略戦争を行ったことは反省しなければなりません。

「我が国は独立国家であり、アメリカの領土の一部・州ではありませんから、社会主義者や、共産主義者のように、アメリカの核の傘の下で核兵器廃絶を訴えても、所詮はまやかしに過ぎません。広島市民の皆さん、アメリカの核の傘の下で、核兵器廃絶を訴えるような、歪んだ平和運動に、終止符を打とうではありませんか。」確かに日本は独立国家であり、アメリカの州ではありません。しかし、少なくとも「社会主義者」や「共産主義者」のほとんどは、アメリカの核の傘の撤廃を目指していますし、むしろそれを主眼としている運動が多いように見受けられます。佐藤栄作元総理大臣のように、非核三原則を採択する一方で社会主義国をアメリカの核で攻撃できるように取引した例もありますが、少なくとも「社会主義者」や「共産主義者」はアメリカの核の傘の庇護での核兵器廃絶運動は行っているように見えませんし、そのような運動はアメリカに対するご都合主義でしかありません。

「広島市民の皆さん、目には目、歯には歯というように、核には核という基本姿勢が必要な時もあるのではないでしょうか。19985月、南アジアの火薬庫といわれている、インドとパキスタンが、・・・核実験を行いました。インドとパキスタンは、・・・独立以来、3次にわたって全面戦争を繰り広げておりましたが、1998年の、両国の核実験以来、全面戦争はないと聞いております。・・・核抑止力の正当性と、核武装の必要性を議論することにより、真の平和運動に、取り組まなければなりません。」インドとパキスタンは1947年に独立して以来、1948年第一次印パ戦争、1965年第二次印パ戦争、1971年第三次印パ戦争を戦いました(第一次・第二次はカシミール地方をめぐる衝突、第三次はパキスタンからのバングラデシュ分離独立に際しての衝突でした)。それ以来、大きな武力衝突は起こっていません(小規模な衝突は核実験後もありましたが)。核実験が行われるまでの27年間はどうして大規模な武力衝突が起こらなかったのでしょうか。そのことを演説していた右翼民族派の隊員に尋ねたところ、そこまでは調べていなかったらしく、「核抑止力が働いた可能性がある」という表現に変わりました。これでは核抑止力がインドとパキスタンの戦争を停めたとは言い切れません。つまり、これは核抑止力の例として不適切です。核抑止力と戦争の例として、1969年に起こったソ連と中国の国境線をめぐる武力衝突があります。ソ連は1947年、中国は1964年にそれぞれ核実験を成功させ、核兵器を保有していました。にもかかわらず、武力衝突が起こったということは、核抑止力に何の意味があるのでしょうか。このことを考えると、核抑止力の正当性はあまり根拠のあるものではありませんし、核武装が必ずしも必要とはいえません。

「核兵器保有国のアメリカのオバマ大統領が、核兵器廃絶を表明しても、ロシアや中国の核兵器は、どうなりますか。アフガニスタンや、イラクに駐留する、自衛隊はどうしますか。」ロシアや中国も核兵器廃絶を表明すればよいだけです。アフガニスタンや、イラクに駐留する自衛隊の警備は、通常兵器のみでよいのではないでしょうか。核兵器(劣化ウラン弾などを含み)が必要な理由がありません。

「・・・テロ国家、北朝鮮のような無法国家が、我が国のすぐ側に存在する限り、我が国としても、核武装することにより、我が国の平和を守らなければなりません。」北朝鮮が日本に対し起こす行動を右翼民族派がどのように想定しているのかわかりませんが、前述したとおり、核武装をしても武力衝突が避けられるわけではありません。北朝鮮は今年に入り国際社会から再び孤立しつつあります。日本を攻撃する余力など北朝鮮にはありません。北朝鮮の核武装もアメリカの核から身を守るためでしょう(もっとも、アメリカとの戦力差はあまりにも大きすぎますが)。仮に日本を核攻撃しても、その後に北朝鮮自身が何もしようがありません。

「我々は、広島から世界に向け、恒久平和を訴えるため、平和運動に取り組んでおります、民族派団体の街頭遊説隊であります。」「核兵器廃絶など、現実から遠くかけ離れた、机上の空論ではないでしょうか。」「・・・私たちは核兵器廃絶を人類不滅の願いと信じながらも、核抑止力の正当性と、核武装の必要性を訴えております、86原爆犠牲者慰霊追悼行進の、街頭遊説隊であります。」結局、右翼民族派にとって、「核兵器廃絶」も、「恒久平和」も、「現実から遠くかけ離れた、机上の空論」でしかなく、「核兵器廃絶は人類の願い」という言葉も、右翼民族派にとってはほとんど重みを持たない言葉なのでしょう。そのような無責任で軽薄なことを簡単に言う人間に核兵器廃絶が成し遂げられようはずもありません。理想を「現実から遠くかけ離れた、机上の空論」などと嗤う人間には、理想が「現実から遠くかけ離れた、机上の空論」にしかなりえないような世界しか作れないのではないでしょうか。右翼民族派の皆様に問います。あなた方にとって、占領憲法の改正(自主憲法の制定)も、領土の奪還も、教育の正常化(日教組・全教の粉砕)も、国家主権の回復も、すべて「現実から遠くかけ離れた、机上の空論」でしかないのですか。二・二六事件で決起した者たちの目指した「昭和維新」も、すべて「現実から遠くかけ離れた、机上の空論」と言うつもりですか。そうではないはずです。理想を堅持しつつ、その理想に沿った行動を実行することが重要なのではないのでしょうか。

さらに付け足しておくと、右翼民族派の描く核軍縮への道程は、日本が核武装することによってアメリカと対等な地位となり、その上でお互いの核兵器を削減しようというものでした。右翼民族派が、日本は何発の核兵器を開発すべきかを考えているかはわかりませんが、1発核兵器を作ればよいというものではありません。中国は非戦術核も含めて400発以上の核兵器を保有しているといわれます。北朝鮮は1520発程度保有していると目されています。これに対抗するには核兵器を何発作ればよいのでしょうか。さらに、日本が何発核兵器を開発すれば、非戦術核を含め1万発以上の核兵器を保有しているアメリカやロシアと対等な地位に就くことができるのでしょうか。アメリカと対等の立場に立てるだけの核兵器を作る予算を日本政府は確保できるでしょうか。そして、右翼民族派は、核兵器を保有はするが戦争で使用するわけではないと言いました。私が核武装をするならばそれなりの覚悟をもってするべきだ、と言ったところ、核兵器保有国は核兵器を使えば相手国も核兵器を使うことがわかっているのだから使わない、君の考えは平和ボケしていると言われました。核兵器を使用する局面を想定せずに核兵器を所持するというわけです。仮に使う機会があった場合はどうするのでしょうか。必要とあらば都市(北京・平壌など)を灰燼に帰する覚悟がなければ、どうして核開発をする必要があるのでしょうか。核武装したふりをすればよいのではありませんか。現在でもアメリカ軍の核兵器が日本に存在する可能性がありますから、核武装の必要もなくなりませんか。核兵器を保有するが使用はしないというのはそれこそ「平和ボケ」ではありませんか。私には右翼民族派が大衆に核武装を主張することに後ろめたさを感じているように見えました。

inserted by FC2 system