ノーベル賞授与式に考える(その2

 今年のノーベル平和賞は、中国の民主化活動家、劉暁波氏が受賞しました。劉暁波氏は198964日の天安門事件に参加し、多くの民主化活動家が国外に亡命する中で民主化活動を続け、投獄と釈放を繰り返す中で2008年に「08憲章」を起草しました。それを発表する直前に中国政府によって身柄を拘束され、今年2月に国家政権転覆扇動罪で懲役11年の実刑判決を受けて服役中に受賞しました(劉暁波氏の妻も自宅軟禁状態に置かれています)。一方、中国政府はこの受賞を「賞の趣旨に背き、これを汚すもの」であるとしてノーベル賞委員会を批判しました。獄中にいる本人は授賞式に出席できず、受賞者の席は空席でした。さらに中国政府の働きかけにより20カ国ほどの代表が授賞式を欠席するという事態となりました。式場の外では劉暁波氏の釈放を求めるデモと劉暁波氏の受賞に反対するデモの両方が行われました。

 私も「08憲章」の日本語訳を読みました(参照カズ@憧れの大地)。日本では憲法で当然のように保証されている自由権、平等権、司法権の独立が謳われていました。これを否定し、ただひたすらに弾圧の対象としかしない中国政府の稚拙さが露呈しています。中国政府は言論の自由を認めてしまえば崩壊してしまうほど弱体なものなのですか。それほどまでに現在の統治体制に自信を持てないのですか。ただひたすらに反体制と目した人物を弾圧したところでいつまでもそのような体制を続けていられるはずがありません。現在の共産主義体制で国を何の障害もなく統治できる自信があるのであれば、思想の自由を認めたところで共産主義体制を変えるには至りません。そうでなくとも違う思想の意見を聞くことで統治体制の改善が可能です。中国政府は変わるべきなのです。このままでは中国政府の統治はいずれ破綻します。

 しかし、翻って現在の日本国民はしたり顔でこのようなことを語ってよいのでしょうか。私は「08憲章」を読んで深く考えさせられました。この憲章では「国民」という言葉が現れません。「人民」「公民」という言葉があるのみです(それらが国民を表しているのかもしれません。私は中国語をよく知らないので)。中国批判をする人の中には「国民」という言葉を好む人がしばしばいます。そして、「08憲章」の中には次のような表現があります。

 

公民は正真正銘の国家の主人とならなければならない。"明君""清官"に依存する臣民意識を捨て去り、権利を根本とし参与して責任を負うという公民意識を育み、自由を実践し、民主を躬行し、法治を尊奉することこそ中国の根本的な活路なのである。

 

日本国民は完全に「臣民意識」を捨てさり、「正真正銘の国家の主人」と慣れているのでしょうか。「臣民意識」が捨てされていないからこそ、選挙に際しても投票に行かず、投票に行ったとしてもイメージの良い政治家に軽い気持ちで投票してしまうのではありませんか。果たして現在日本の住民は日本「公民」なのか、日本「臣民」なのか、どちらでいるのでしょうか。日本国民は、現在の憲法によって当たり前のように存在する「主権」、「権利」を顧みたことがあるでしょうか。「保守派」や右翼民族派は、中国の人権状況について批判するとき(特に劉暁波氏について語るとき)、真面目にそのようなことを考えたことがあるでしょうか(そもそも「08憲章」は日中戦争を「抗日戦争」と表現していますし、チベット・ウイグルなどの少数民族の独立まで言及していません)。そして「08憲章」には、こうも書かれています。

 

人は国家の主体であり、国家は人民に奉仕し、政府は人民のために存在するのである。

 

「保守派」や右翼民族派はしばしば「国家」や「国家主権」という言葉を使いますが、「国家」とは何のために存在するか考えたことがあるのでしょうか。私が見たところによると、「国家」があって国民がある、つまり「国家」が第一にあって「国民」はその次にあるという考え方をしているように見えます。それは「08憲章」の精神にあわないのではありませんか。

 本来、「権利」は人民が権力との闘争によって勝ち取ったものです。中国民主化の闘いは中国政府がどれほど過酷に弾圧しようとも終わることはなく、むしろ激しくなるでしょう。その闘争の果てに勝ち取る「人権」は強くかけがえのないものとなるはずです。日本の「人権」は第二次世界大戦に敗北して何の闘争もなく連合国によって与えられたものでしかありません。それが日本国内における「人権意識」の扱いに影響しています。今一度、「人権」がどれほどかけがえのないものであるかを見直すべきではないのでしょうか。劉暁波氏の釈放と日中双方の民主主義の発展を心より願います。

戻る

inserted by FC2 system