この日の演説・シュプレヒコール

「・・・ご通行中の皆さま、良識ある兵庫県民の皆さま、我々は祖国日本の伝統文化を愛し、先人から受け継いだ尊い国家を次世代に正しく伝えるため、反日主義者・反社会主義者の展示会「表現の不自由展」を兵庫県で開催することに断固反対する立場から抗議活動に立ち上がっております、民族派愛国者団体有志による合同遊説隊であります。

皆さんもご存じの通り表現の不自由展は、世間から様々な批評が上がり、社会的にも問題視されています。その内容は、畏れ多くも昭和天皇の肖像写真をバーナーで焼き、焼け落ちた灰を踏みにじる動画を放映したり、我が国のために尊い命をささげられた戦没者の傷つける造作物を「間抜けな日本人の墓」と題して愚弄したり、いわゆる慰安婦問題を象徴する少女像を展示し、偽りの歴史によって国家間の対立をあおったりと、まさにこの展示会は表現の名を借りた反国家、反社会的主義者の政治的表現であり、このような反国家・反社会的表現が、公共施設で行われるのはどうなのか、と我々は大いなる疑問を呈するのであります。そもそも憲法に保障されている表現の自由は、公共の福祉に反しない限り最大限尊重されるものであり、我々国民は、普段の努力によって、これを保持しなければならないのであって、無制限に表現を認めたものではありません。

例えば、自分のおじいちゃんの写真を焼かれて、表現の自由と主張する人がいるでしょうか?ましてや他人のおじいちゃんの写真を焼く動画をSNSに公開すれば立派な犯罪であります。表現の不自由展はまさにその犯罪行為を表現の自由と主張して国家を貶めているのであります。

憲法には、国民はこの権利を乱用してはならないのであって、常に公共の福祉のために利用する責任を負うとされていますが、表現の不自由展が行っている表現は、自らに都合よく権利だけを主張し、権利に担保された義務を放棄した、狂信者の自慰行為(マスターベーション)と言わねばなりません。

また、表現の不自由展が表現の自由を標榜するのならば「主権の存する国民の総意に基づく」天皇を愚弄する行為は、自らがする主張とかけ離れているのではないか?みずからの表現は無制限に認められるが、天皇の地位は認められないという駄々っ子の言い分は、公共の福祉のためになっていないと我々は断言するのであります。

そのうえ、このような反国家・反社会的狂信者集団に、県民会館の利用を認めた斎藤元彦知事はどうなのか?我々は、昨年から兵庫県には、表現の不自由展に公共施設を利用させないでほしいと要望しておりますが、斎藤知事は全く聞く耳を持ちません。大阪の吉村知事とだけ仲良くしていれば何とかなると思っているのでしょうか。兵庫県民はそうはいかないのであります。県民会館は兵庫県民の施設であり、斎藤知事独自の施設ではありません。我々は公の施設において天皇の地位を冒涜し、戦没者の名誉を傷つけ、偽りの歴史を喧伝する、反国家・反社会的国賊集団の政治的表現を発信する場として、兵庫県が公共施設の利用を認め、表現の自由の名の下に、表現の不自由展が行われることは公共の福祉のために利用されているとは断じて考えられないのであります。まさに権利の乱用を容認したと糾弾しなければならないのであります。どうか心ある兵庫県民の皆さま、私たちは身勝手な権利の主張と嘘を土台とした表現を認めない、対立と確執を生む反日展示会を許さない、斎藤知事は県民の声に耳を傾けろ、と声を大にして抗議の声を上げてください。・・・」
 日本国民の心を踏みにじる反日展示会表現の不自由展、粉砕せよーーー!!!(ふんさーいせよーーー!!!)
 「必ず批判され混乱を招くことを前提とした展示物を並び立てる頭のおかしな表現の不自由展は即刻解散せよーーー!!!(かいさんせよーーー!!!)」

「表現の不自由展に携わる、すべての反日分子は、日本から出てけーーー!!!(でーてけーーー!!!)」

いかがでしたか。そして、どう感じましたか。

皆さんもご存じの通り表現の不自由展は、世間から様々な批評が上がり、社会的にも問題視されています。」「必ず批判され混乱を招くことを前提とした展示物を並び立てる頭のおかしな表現の不自由展は即刻解散せよーーー!!!(かいさんせよーーー!!!)」「日本国民の心を踏みにじる反日展示会表現の不自由展、粉砕せよーーー!!!(ふんさーいせよーーー!!!)」「表現の不自由展に携わる、すべての反日分子は、日本から出てけーーー!!!(でーてけーーー!!!)」作品が展示されて様々な批判が出たと言いたいのでしょうが、批判を受けることが表現をしてはいけない理由には必ずしもなりません。批判されるから展示してはいけないというのはただの同調圧力です。誰が何をしても批判する人はいるでしょうし、批判を恐れていては何もできません。そうして批判を許さない社会は活力を失ってしまいます。批判されることが悪いことではありませんし、それよりまず右翼民族派は批判を受けるから活動を止めるということはしないでしょう。そもそも、こうして「反日的」「日本人を侮辱している」と右翼民族派が反応することも表現の不自由展の一部であると見ることもできます。

その内容は、畏れ多くも昭和天皇の肖像写真をバーナーで焼き、焼け落ちた灰を踏みにじる動画を放映したり、我が国のために尊い命をささげられた戦没者の傷つける造作物を「間抜けな日本人の墓」と題して愚弄したり、いわゆる慰安婦問題を象徴する少女像を展示し、偽りの歴史によって国家間の対立をあおったりと、まさにこの展示会は表現の名を借りた反国家、反社会的主義者の政治的表現であり、このような反国家・反社会的表現が、公共施設で行われるのはどうなのか、と我々は大いなる疑問を呈するのであります。」「遠近の彼方へ」は昭和天皇の肖像画を使った作品が展示できず、やむなく図録を焼却しなければならなくなった際の映像です。「時代の肖像−絶滅危惧種 idiot JAPANICA 円墳」は大東亜戦争で多くの英霊が散華されて残った日本国が現在もアメリカの従属化にあることの皮肉です。従軍慰安婦(あるいは日本軍による女性への性的搾取)が歴史上存在したか否かの議論と平和の少女像を展示する是非は直接関係なく、議論があることは作品を鑑賞する側が知っておけばよいことです。たとえ荒唐無稽な陰謀論に基づく作品を展示していようと、それが差別や犯罪を直接的に助長するものでもない限り表現の自由は認められなければなりません。その一方で、右翼民族派が作品を見て不愉快に感じたこともまた否定されるものではありません。作品を制作した作者にはそれぞれ強い想いがあるでしょうが、作品を鑑賞した人が作品をどう評価するかは自由ですし、どのように批評するかも表現の自由です。

そもそも憲法に保障されている表現の自由は、公共の福祉に反しない限り最大限尊重されるものであり、我々国民は、普段の努力によって、これを保持しなければならないのであって、無制限に表現を認めたものではありません。例えば、自分のおじいちゃんの写真を焼かれて、表現の自由と主張する人がいるでしょうか?ましてや他人のおじいちゃんの写真を焼く動画をSNSに公開すれば立派な犯罪であります。表現の不自由展はまさにその犯罪行為を表現の自由と主張して国家を貶めているのであります。」作品が展示されることで右翼民族派の名誉が毀損されるのあれば、名誉毀損で作者なり実行委員会なりを刑事告訴すればよろしいのです。公共の福祉に反しないことがどのようなことかは諸説ありますが、端的に言えば他人の人権を不当に(正当で合理的な理由なく)侵害しないことです。具体的に誰の何の権利が侵害されているのでしょうか。昭和天皇は右翼民族派のおじいちゃんではありませんが、百歩譲って右翼民族派にとって昭和天皇が家族同然の存在であり、作品の展示によって右翼民族派の何かしらの権利が侵害されているとしても、裁判所は見なければよいと判断するでしょう。

憲法には、国民はこの権利を乱用してはならないのであって、常に公共の福祉のために利用する責任を負うとされていますが、表現の不自由展が行っている表現は、自らに都合よく権利だけを主張し、権利に担保された義務を放棄した、狂信者の自慰行為(マスターベーション)と言わねばなりません。」狂信者の自慰行為はお互い様でしょう。しかしそれを私は否定的には見ていません。こう言うと右翼民族派は「我々は国のために活動をしているのであって、自分勝手な権利を主張する左翼とは違う」と反論するでしょうが、国のためというのも右翼民族派の主観でしかありませんし、興味のない人から見れば右翼民族派の街宣活動も選挙の演説も自慰行為にしか見えません。どのような立場でも、運動の最初のモチベーションは自分の理想を実現することであり、そういう意味で運動の起点は狂信者の自慰行為だと思います。それが単なる自慰行為に終わってしまうか、広く共感されるかは理想の普遍性から結実した結果まで様々な要因が関係するので何とも言えませんが。

また、表現の不自由展が表現の自由を標榜するのならば「主権の存する国民の総意に基づく」天皇を愚弄する行為は、自らがする主張とかけ離れているのではないか?みずからの表現は無制限に認められるが、天皇の地位は認められないという駄々っ子の言い分は、公共の福祉のためになっていないと我々は断言するのであります。」「天皇を愚弄する行為」と表現の不自由展の開催をあたかも矛盾するかのように論じていますが、何がどういうことなのかさっぱりわかりません。日本国憲法下での天皇は大日本帝国憲法で規定されているような神聖不可侵の存在ではなく、国民の意思でその地位が決まるということです。表現の不自由展のスタッフも作品の制作者も大半は国民の総意を構成する日本国民なので、皇室を廃止するような意見を言っていてもそれは国民の一意見です。右翼民族派にとって皇室が神聖不可侵なものであろうと、天皇を愚弄ないし批判することと表現の自由は両立します。もちろん公共の福祉に反するものではありません。

そのうえ、このような反国家・反社会的狂信者集団に、県民会館の利用を認めた斎藤元彦知事はどうなのか?我々は、昨年から兵庫県には、表現の不自由展に公共施設を利用させないでほしいと要望しておりますが、斎藤知事は全く聞く耳を持ちません。大阪の吉村知事とだけ仲良くしていれば何とかなると思っているのでしょうか。兵庫県民はそうはいかないのであります。県民会館は兵庫県民の施設であり、斎藤知事独自の施設ではありません。我々は公の施設において天皇の地位を冒涜し、戦没者の名誉を傷つけ、偽りの歴史を喧伝する、反国家・反社会的国賊集団の政治的表現を発信する場として、兵庫県が公共施設の利用を認め、表現の自由の名の下に、表現の不自由展が行われることは公共の福祉のために利用されているとは断じて考えられないのであります。まさに権利の乱用を容認したと糾弾しなければならないのであります。どうか心ある兵庫県民の皆さま、私たちは身勝手な権利の主張と嘘を土台とした表現を認めない、対立と確執を生む反日展示会を許さない、斎藤知事は県民の声に耳を傾けろ、と声を大にして抗議の声を上げてください。」兵庫県としては利用申請があればよほどの事情がない限り受理せざるを得ないし、斎藤知事もコップの中の嵐だとしか思っていないのが実情でしょう。私的な施設であれば所有者の意向で貸し出しを拒否するということも認められるでしょうが、公共施設は違法行為や公序良俗に反する行為が行われることが明白でない限り誰でも使えるものです。上述の通り、「天皇の地位を冒涜し、戦没者の名誉を傷つけ、偽りの歴史を喧伝する、反国家・反社会的国賊集団の政治的表現を発信する」ことは表現の自由ですし、兵庫県民会館の使用を差し止めたいなら裁判に訴えるしかありません。対立と確執は乗り越えることですし、開催によってトラブルが予想されるなら展示会スタッフや警察が秩序の維持にあたるでしょう。それは昨年表現の不自由展かんさい開催をめぐってエルおおさかの使用許可取り消しを差し止めた判決でも言われています。ただ県民会館では開催前日から終了まで他の施設が利用できないなど影響は多大であったことは留意しておくべきでしょう。遠慮する必要はありませんが、公共施設を使わなくてもいい展示会になってほしいとは感じます。

総じてみるに、天皇を大きく取り扱っている表現の不自由展を批判するために何とか「公共の福祉」を盾に理屈を組み立てたような内容でした。右翼民族派は「公共の福祉」と同調圧力との区別がついておらず、ただ自らが気に入らない展示会を「反日」として公共の福祉に反していると言っているだけに過ぎません。たとえ展示内容が「反日的」であろうと、表現の自由は認められなければなりません。表現の価値は人それぞれ異なるもので、価値がないと判断されれば表現の不自由展には自然と誰も来なくなります。しかしたとえ誰にも振り向いてもらえずとも作者たちは作品を展示し続けるでしょうし、その精神はたとえ誰も聞かずとも演説を続ける右翼民族派にも通じるのではないでしょうか。批判を恐れず表現し続けることは思想に関係なく重要です。

表現の不自由展開催を私は一応支持しますが、表現の不自由展にも問題がないわけではありません。抗議活動と新型コロナウイルス感染拡大を避けるためとはいえ、完全予約制で会場を直前まで秘匿している(抗議する側には漏れていました)のは仲間内だけのイベントの様相を濃くしていただけのように感じました。右翼民族派は「市民の大半は我々の街宣活動を見に来て、そのついでにくだらない展示会を見に来ているに過ぎない」と嘲笑っていましたが、事前予約ができず展示を鑑賞することができないほとんどの市民にとっては当たらずとも遠からずという状況になってしまいました。共同通信が報じた平和の少女像の隣に座った女性の盗撮事件も、そうした仲間内だけの閉鎖的な空間で起きたのではないでしょうか。今すぐには難しいのかもしれませんが、多くの人に開かれた展示会を堂々と開催できるようになってほしいと願います。

そもそも、不自由とは何なのでしょうか。表現の不自由展は私設の会場ではなく、公共施設を借りて開催しています。右翼民族派の街宣活動や会場前での演説にしても、公安条例に基づいて警察署に届け出をして、担当する公安部門の警察官に声をかけて厳重な警備体制の中行っています。どちらも行政に管理されていると言えるこの状況は「不自由」と呼べるものではないでしょうか。この不自由を取り払うべきかはさておき、世界にある不自由を知覚し、自由の形を追い求めていきましょう。

戻る

inserted by FC2 system